【中心聖句】

はっきり言っておく。
人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。

 

今日の福音朗読には三種類の人間が出てきます。すなわちイエスの「おっかけ」である群衆、身内の者たちそしてエルサレムから派遣された律法学者です。

 

まず、冒頭には群衆がまた集まって来て(20節)とありますが、原文はκαὶ συνέρχεται πάλιν ὁ ὄχλος、直訳すると「そして 一緒に来た 再び 群衆が」であり、「一緒に来た」ことが強調されています。

 

マルコ1章の後半から、多くの病人や悪霊に取り憑かれた人をイエスが癒やしているのを見て「おびただしい群衆(πολὺ πλῆθοςもしくはπλῆθος πολὺ)」(3章7、8節)が彼のもとに押しかけ、移動する際にもついて行ったことが書かれています。もちろん中には好奇心から集まって来た者たちもいたでしょうが、やはり大半は自分自身あるいは家族が病いを抱えていて、何とかイエスに癒やしてもらいたいという切実な思いを持った者たちだったのでしょう。

 

次に、順序が逆になりますが、律法学者たちです。「エルサレムから下って来た」(22節)とわざわざ断っているのは彼らがエルサレム神殿からお墨付きをもらい派遣されて行動していることを表しています。

 

また「言い」「言っていた」(22節)という表現は日本語訳ではわかりにくいのですが、原文では「未完了過去形」が使われています。つまり、彼らがイエスの行動を持続的に監視した上で群衆に「彼は悪霊に取り憑かれている」「悪霊の頭の力で除霊をしている」と繰り返し「警告」したということになるのでしょう。

 

ここでベルゼ ブルΒεελζεβοὺλという固有名詞が出てきます。新約学者・大貫隆氏によると、これは列王記下1章に登場するバアル בְּבַ֚עַל・ゼブブזְבוּב֙  (アラム語で「蝿の神」)を音訳したものというのが定説であるが、実質的に悪魔の別称の一つと考えて良いとのことです(『岩波キリスト教辞典』p.1019)

 

イエスの働きをベルゼブルのなせる業とする者たちは「聖霊を冒涜しているのであって、永遠に赦されず罪の責めを負う」(29節)ことになります。

 

そして三番目は「身内の人たち」(21節)です。

 

実はこれは原文ではοἱ παρ’αὐτοῦ、直訳すれば「彼からの者たち」となるのですが、31節以降との関連から親兄弟の「身内」と考えてよいでしょう。

 

イエスが「悪霊の頭の力」を使って病気治癒を行っていると聞いたイエスの母や兄弟たち(「身内の人たち」)は慌てて彼を探し回ります。確かに国中に良いにせよ悪いにせよイエスの噂が広まってしまって家族たちが慌てたという気持ちは分からないでもありませんね。

 

そのような「身内の人たち」にイエスは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄妹、姉妹、また母なのだ」(35節)と告げます。

 

イエスが運ぶ神の国(支配)は、血脈を中心とする人間関係を終わらせ、まったく新たな関係を作り出すのです(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.185)