【中心聖句】
火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きている、あなたと同じような民があったであろうか(33節)
今日の朗読箇所は「あなたに先立つ遠い昔」という言葉で始まっています(32節)
雨宮慧慧神父によると、この言葉は直訳すると「あなたの前にある遠い昔」となるが、ここに申命記における時間把握が表れているのです。(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.118)
申命記における時間把握あるいは時間に対する意識とは、具体的に言うと、人は過去を目の前に置き、未来は背中の側にまわすということを意味します(同上)
これは大変に興味深いポイントなので、今朝はこれについて少し考察してみましょう。
雨宮慧慧神父が別の著作に書かれているところでは、これは申命記における時間把握というよりむしろ旧約聖書における時間把握であり、それを踏まえると申命記も理解し易いということです(雨宮慧『旧約聖書のこころ』p.165)
例えば詩篇139編に曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも(9節)とありますが、このかなたの原語はאַחֲרִיתで元々はendやhindpartつまり終わりや背後、後部を意味します(Holladay"Lexicon" p.11)
このאַחֲרִיתは他にもエレミヤ書29章11節やイザヤ書46章10節の原文に現れるのですが、新共同訳では各々、将来、先のことと訳されています。ここで種明かしをしてしまうと実はHolladayの"Lexicon"にはfutureという意味も紹介されています。
さらに、先ほどの詩篇139編に「前からも後ろからもわたしを囲み」(5節)という一節がありますが、ここでの「前から」の原語はקֶדֶםでin frontやeastを意味する言葉です(Holladay "Lexicon" p.313)。
ところが、イザヤ書45章21節の「以前から述べていたかを」の「以前から」もקֶדֶםであり、さらに申命記33章のいにしえの神(27節)の原語はאֱלֹ֣הֵי קֶ֔דֶםであり、קֶדֶםには過去という意味があることが分かります。
このように旧約聖書においては将来や未来が背後、後部として捉えられていたということになります。
われわれは過去に背を向け未来を見つめているが、ヘブライ人は未来に背を向け過去をみつめている(雨宮慧『旧約聖書のこころ』p.163)のです。
これはボートを漕ぐ人が進行方向に対して背を向けて漕いでいる様子を思い浮かべれば分かりやすいですね。
ご存知かと思いますが、元々のヘブライ語の動詞には「過去・現在・未来」という時制(tense)の変化はなく、代わりに「完了・未完了」の相(aspext)で動作や事象の完結が表されます。時制については文脈で判断することとなるのです。
こうした古代イスラエル人の時間意識は極めて興味深いですし、聖書を読む上でも大切なテーマですが、それについては改めてじっくり考察したいと考えているところです。