主日の聖書 新約聖書 ヨハネによる福音書15章1〜6節 | 生き続けることば

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新旧約聖書の言葉をご紹介する他、折に触れて宗教関連書、哲学書、その他の人文系書籍、雑誌記事の読後感などを投稿いたします。なお、本ブログ及び管理者は旧統一教会、エホバの証人、モルモン教等とは一切、関係がありません。

【中心聖句】

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である(1節)

 

今日の福音朗読箇所は新共同訳の見出しに『イエスはまことのぶどうの木』とありますように、イエスが自身をぶどうの木に喩えた大変に有名な箇所です。

 

上に引用した聖句は良く知られています。クリスチャンの中にもそれを愛唱聖句としている方は多いことと思います。

 

今日は朗読箇所内の以下の3つの言葉を考察しましょう。

 

ぶどうの木(ἡ ἄμπελος ἡ ἀληθινή )

 

ぶどうというと日本ではいえば山梨県やドイツ、ジョージア(旧グルジア)など内陸の産地もありますが、やはり地中海沿岸や米カリフォルニア州などのいわゆる地中海性気候の地域が有名ですね。

 

ぶどうやオリーブは古代からイスラエルの主要な農産物として良く知られていますが、旧約聖書でもぶどうが度々喩えられています。

 

たとえば、エゼキエル書15章では見出しに『役にたたぬぶどうの木』とあり、ぶどうの木が何の役にも立たないことが書かれています(5節)

 

これは6節に「森の中のぶどうの木のように、わたしはエルサレムの住民を火に投げ入れる」とあるように、預言者エゼキエルはイスラエルの現状を焼かれる以外にはない何の役にも立たないぶどうの木と見立て第二次バビロン捕囚の必然性を強調したのでした(雨宮慧『主日の福音ーB年』p.124)

 

その神から離れたイスラエルに父なる神が遣わしたイエスこそ「まことのぶどうの木」であり、その木に繋がることによってイスラエル自身もまた「まことのぶどうの木」として実を結ばせる(同上)という形において預言者エゼキエルの言葉は新約聖書に繋がっていくこととなります。そこで、次に「繋がる」という言葉を考察いたしましょう。

 

つながる(μένω)

 

この言葉の原語であるμένωは1〜6節の短い間に原文では5回も使われていますので、この単元の中心的な言葉であることが分かります。実際、μένωはヨハネ文書が好んで用いる言葉の一つであり、新約聖書の全用例118回の内、67回がヨハネ文書での用例(ヨハネによる福音書40回、ヨハネの手紙一24回、ヨハネの手紙二3回)とのことです(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.91)

 

μένωにはとどまる、待つ、残る、住む、続ける、生きながらえる、生き残る、宿る、泊まるなどの意味がありますが(『ギリシャ語新約聖書釈義事典II』pp.472〜473)、福音書記者ヨハネはこの言葉を「自分の本来のあり方を見出したところに留まる」という意味で使っているように思える、と雨宮慧神父はしておられます(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.91)

 

ところで、これは余談ですが、英語訳ではμένωにto abideという意味もあります。

 

「日くれて四方はくらく」で始まる54年度版讃美歌39番は夕礼拝で讃美される、とても静かで落ち着いた讃美歌なのですが、スコットランド人のHenry Francis Lyteが作詞した原詩の歌い出しはAbide with me; fast falls the eventide;となっています。

 

これはルカによる福音書24章29節の 「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」(“Stay with us, for it is toward evening and the day is now far spent.” RSV)というエマオ途上の弟子たちの言葉に拠っているのです。そしてこの「一緒にお泊りください」Stay with us)の原語がやはりμένωなのです。

 

閑話休題(それはともかく)

 

最後に、3節の「清くなっている」について考察いたしましょう。

 

清い(καθαρός)

 

このκαθαρόςには清い、きれいな、汚れのない、純粋なという意味があります((『ギリシャ語新約聖書釈義事典II』p.267)

 

雨宮慧神父によれば(『小石のひびき 主日福音のキーワード〔B年〕』pp.56〜57)、καθαρόςはまず「物体の純粋さ」を表します。

 

つぎにκαθαρός「祭儀との関わりで見られた清さ」を表します。「祭儀における清さ」というと、旧約聖書レビ記に書かれた膨大な規定を思い出しますね。

 

そして、更にκαθαρόςは「倫理的、宗教的な観点から見た清

さ」も表します。「山上の説教」には「心の清い人々は、幸いである」(マタイによる福音書5章8節)という言葉がありますが、この原語がやはりκαθαρόςなのです。

 

「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」(3節)というイエスの言葉にあるように、イエスの言葉によって清さを与えられたわたしたちは、「まことのぶどうの木」であるイエスにつながることによって、その清さを保ち続けることができるということでしょう。