【中心聖句】
だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である(18節)
今日の福音朗読箇所には羊や羊飼い、囲い、狼といった牧羊に関わる比喩が出てきます。
国民の人口より羊の数のほうが多いという国もありますが、日本に住む私たちにとって牧羊は殆ど無縁ですね。しかしイエスの言葉を聞いていたイスラエルの民にとってはごくありふれた日常的な光景だったことでしょう。
さて、今日のごく短い単元の中には「命を捨てる」という言葉が次のように五回も出てきます。
良い羊飼いは羊のために命を捨てる(11節)
わたしは羊のために命を捨てる(15節)
わたしは、命を再び受けるために、捨てる(17節)
わたしは自分でそれを捨てる(18節)
わたしは命を捨てることもでき(同)
この「命を捨てる」は原文ではτίθημι τήν ψυχήν、直訳すると「命を置く」となります。
この表現はいわゆるヨハネ文書のみに11回登場します。また、七十人訳旧約聖書では「命を懸け、危険を冒す」の意味で数回使われています(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.88)
ヨハネの手紙一には「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました...だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」(3章16節)とありますが、そこにおいては「命を懸け、危険を冒す」だけではなく「命を献げる」ことも意味していると考えられます(同p.89)
上記の5つについてもう一つ気がつくことがあります。
11節では「良い羊飼いは...」と主語が三人称になっているのに対して15節以下は「わたしは...」と一人称になっています。つまり、11節は「良い羊飼いというものは」という一般論ですが、15節以下は明らかにイエスは自分自身のこととして語っています。
ところで、「羊飼い」がイエス、「羊」が信徒たちであることはすぐに分かりますが、問題は「雇い人」が誰を指すかです。
このことについて新約聖書学者・田川建三氏は「イエスの死後にキリスト協会の指導者(であるはずの者)となった者たち、つまり主としてエルサレム教会の指導者であるペテロたち『十二使徒』一派を指す...それ以外の可能性はありえない」(田川建三『新約聖書 訳と註5』p.473)としています。
この、福音書記者によるペテロたち『十二使徒』一派への強烈な批判について今日は取り上げませんが、田川建三氏はヨハネ4章37〜38節の註解において使徒言行録の記述も取り上げながら詳しく論じています(同pp.246〜256)。
その文脈でいえば、「囲いに入っていないほかの羊」(16節)とは、新約聖書学で定説となっている「異邦人」ではなく、「現在キリスト信者になってはいない世の中の大勢の人たちを指す」(同p.480)ということになります。
当時のユダヤ社会においてキリストを信じるものはごく少数だったでしょうから、異邦人に話を広げる前にそもそもユダヤ人で「囲いに入っていない」人たちは大勢いたに違いありません。
雨宮慧神父は「イエスの復活は、イエス自身のためではなく、群れのため、中でも新たに迎え入れられる異邦人のためである」(雨宮慧『主日の福音ーB年』p.120)としています。
良い羊飼いが羊を守るために「命を献げる」のと同じようにイエスは「父から受けた掟」(18節)によって十字架の上で「命を献げ」たのでした。
最後にこの掟という言葉についてひと言。この原語はἐντολήというのですが、これはマタイやマルコなどでは「モーセの律法、掟」を指すのに対してヨハネでは「御父が御子に与えた指示、あるいはキリストが弟子たちに与えた戒め」を表しています(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.80)



