Happy Easter !
イースターおめでとうございます。
【中心聖句】
それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた(8節)
今日の福音朗読はヨハネによる福音書と共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)の4福音書全てが書いている「空の墓物語」です。
ただヨハネによる福音書ではマグダラのマリアが物語の中心になっていますし、また「イエスの愛しておられたもう一人の弟子」が登場します。
「まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」(1節)と書かれているように彼女は独りで墓に行ったはずですが、彼女がシモン・ペトロと「イエスの愛しておられたもう一人の弟子」に墓でのことを報告したときには何故か「わたしたちには分かりません」(2節)と複数形になっています。
この点について新約聖書研究者・田川建三氏は、ヨハネによる福音書記者はマルコによる福音書を知っており、マルコが「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」の三人が墓に行った(16章1〜2節)と書いたことが下敷きになっているとしています(田川建三『新約聖書 訳と註5』p.710)
また、「イエスの愛しておられたもう一人の弟子」はヨハネによる福音書に度々登場する人物(13章23節、19章26節など)ですが、伝統的にはゼベタイの子ヨハネ(マタイによる福音書4章21節)やヨハネによる福音書記者ヨハネと同一人物と考えられて来ましたが、田川氏は「最も可能性が高いのは、これは著者が創作した架空の人物」としています(同p.578)
さて、ちょっと七めんどくさい文法的な議論になりますが、1〜6節において「マリアは墓に行った」(1節)「石が取りのけてあるのを見た」(同)などと過去形で表されている動詞は実は原文では現在形なのです。
これはhistorical present(歴史的現在)と呼ばれ、実際には過去の状況や出来事について読者や聞き手が活き活きと臨場感を感じることが出来るために用いられる手法です(Wallace "Greek Grammar BEYOND the BASICS" pp.526〜529)。
日本でも伝統時な講談や最近ではYouTubeでも流行している怪談の語り手は過去に起こったことを現在形で語ることが多いと思います。
今日の箇所には「見る」という言葉が4回出てきますが、原文では「見た」(1節)と「覗く」(5節)は βλέπω、6節の「見た」は θεωρέω、さらに8節の「見て」は εἶδον (ὁράω)と違う言葉が使われています。
これについて βλέπωは「(ごく普通に)身体的に見る」、θεωρέωは「時間をかけてじっくりと観察する」そして εἶδονは「心の目で真理を洞察する」ことを意味しています(雨宮慧『主日の福音ーB年』p.106)
さらに、8節の「見て」(εἶδον)には目的語(見る対象)が明示されていません。口語訳では「これを見て」とされていましたが、「これを」は余計でした。
「目的語を述べないことによって”見る”の次元が精神的なものへと高められたことを示したいのかもしれない」(同p107)ということであり、もしそうだとすれば、次の「信じた」という言葉とも繋がります。
9節は恐らく後から挿入された説であろうというのが定説です。8節には「見て、信じた」とあるのに9節では「二人はまだ理解していなかった」とあり、筋が通りません。
9節の更なる問題は「イエスは必ず死者の中から復活されるという聖書の言葉」という部分です。ここでの聖書はいうまでもなく私たちにとっての旧約聖書ですが、旧約聖書のどこにこの言葉があるでしょうか。
「イサクの奉献」に関して「アブラハムは神がイサクを復活させてくれると信じていたので喜んで彼を捧げようとした」という解釈をなさる人ならばともかく、浅学非才な当ブログ管理者はそのような言葉を見つけることが出来ませんでした。
いずれにせよ、今日の福音朗読箇所は「見て、信じた」が頂点になるように構成されており、最初に信じることが出来たのは「イエスが愛しておられた弟子」だったのです(同p.107)


