【中心聖句】

はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。

 

 

今日の福音朗読箇所でのキーワードとして「「時ὥρα」(23節、27節)と「今νῦν」(27節、31節)を取り上げます。

 

20〜21節には祭りのとき礼拝するためにエルサレムに来たギリシャ人たちがイエスの弟子であるフィリポにイエスに合わせてくれと頼んだ、と書かれています。

 

ここで祭りとあるのは「過ぎ越しの祭り」(出エジプト記12章等)のことであり、その祭りのためにエルサレムに巡礼にきているのですから、このギリシャ人とはユダヤ教に改宗したギリシャ人を指しているのでしょう。

 

このギリシャ人の到来が「『イエスの時』の成就のしるしと理解された」(雨宮慧『主日の福音ーB年』p.78)のであって、彼らギリシャ人はいつの間にか表舞台から姿を消しています。

 

このギリシャ人の来訪がもたらした「今νῦν」について述べられているのが23〜28節です。この部分を分けると次のようになります。

 

23〜28節前半   イエスの言葉と祈り

28節後半   神の応答

29節     群衆の反応

30〜32節      イエスの言葉

33節     ヨハネの言葉

(同上)

 

一粒の麦は地に落ちて死ぬことによって初めて多くの実を結ぶ、とイエスはいいます(24節)。イエスにとって死を迎える時とは決して敗北の時ではなく、栄光が現れる時なのです。

 

27節には天からの「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」という声が聞こえたと書かれています。

 

前半では「栄光を表すδοξάζω」が過去形となっています。これは「十字架に至るまでのイエスの歩みは、神の栄光の現れ」だったからです(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.63)

 

また、後半は未来形ですが、「十字架で始まる今からのイエスの歩みは、イエスの死がもたらす豊かな実りを人々が享受することになる」(同上)を現しています。

 

25節のイエスの言葉についてですが、「この世で自分の命を憎む人」とありますが、ここでイエスは自分の命を粗末にして良いとか自◯を勧めているというわけではもちろんありません。

 

ここではこの世で与えられた命を永遠の命のために(εἰς ζωὴν αἰώνιον)ささげる生き方のことが言われているのです(同上)

 

27節には「今、わたしは心騒ぐ」という、死を覚悟し喜んで受け入れているはずのイエスが動揺しているような言葉が記されています。

 

これは、十字架上のイエスが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫んだという場面(マタイによる福音書27章46節)を思い起こさせますが、イエスは「父よ、御名の栄光を現してください」と祈り(28節)、神はその祈りに「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」(28節)と応えたのでした。

 

「死と復活と昇天、それが神の栄光を現す」のです(雨宮慧『主日の福音ーB年』p.81)