【中心聖句】

わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。(2節)

 

今日の旧約聖書朗読箇所は「十戒」です。

 

まず、上に引用した2節ですが、これは神の自己顕現、自己紹介の言葉です。

 

ここで神が「天地を創造した神」(創世記1章)ではなく、「イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から導き出した神」と自己紹介していることについて手島佑郎氏は中世スペインのラビ・イェフダ・ハレヴィ(1075年頃〜1141年)の言葉を紹介しています。

 

一口に信仰といっても人それぞれ内容が違う(中略)しかし、エジプトからかれらが救出されたことは、いま体験したばかりの動かせない事実である。そこで皆が共通認識できる事実をもとに神は自己紹介した。こうすれば当然、他の神に走ることは出来ない。(手島佑郎『出エジプト記』p.196)

 

「神の自己紹介」といえば同じ出エジプト記「わたしはある。わたしはあるという者だ」(3章14節)が良く知られていますが、この言葉も大変に重要ですので、これについては日を改めて考察することにいたします。

 

3節以下が「十戒」ですが、これは大きく2つに分けられます。

 

3〜12節  人と神との間に結ばれた契約

13〜17節   人の生活を規定する倫理

                                                        (雨宮慧『図解雑学 旧約聖書』p.87)

 

第一戒 あなたには、わたしをおいてほかに神があっては

    ならない(3節)

 

わたしをおいての原文を直訳すると「わたしの顔の前に」ですが、ここでは神ヤハウェに加えて他の神々を並べることがないよう強く求められています(『旧約聖書注解I』p.156)

 

 

第二戒 あなたはいかなる像も造ってはならない(3節)

 

この暫く後(32章)にモーセが山に登っている間にアロンが金の子牛を造り、イスラエルの民がその周りでどんちゃん騒ぎをしたので山から降りてきたモーセが激怒した、という有名な話がありますね。

 

5節の「熱情の神」についてですが、ここで熱情と訳されている言葉の原語はקַנָּאjealous(Holladay "Lexicon"p.320)というですので直訳では「嫉妬深い神」となります。

 

このקַנָּאは本来、相手を激しく愛するゆえに、相手が心を反らした場合に相手を許してはおかないアンビヴァレントな愛を表す語ゆえ「熱愛の神」と訳す方が的確であろう(p.156)とされています(『旧約聖書注解1』p.156)

 

第三戒 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない

    (7節)

 

このみだりには普通、むやみやたらになどという意味で使われていますが、原語のשָׁוְאにはworthlessとかin vainなどという意味があります(Holladay "Lexicon"p.361)

 

ですので、絶対に神の名を口にしてはいけないのではなく、空虚な目的のために神の名を唱えてはいけないということを意味しています(手島佑郎『出エジプト記』p.200)

 

 

第四戒 安息日を心に留め、これを聖別せよ(8節)

 

安息日(シャバット;שַׁבָּת)については今さら説明する必要もないくらいですね。6日間、一所懸命働き7日目には完全に休むべしということですが、今の暦でいえば金曜の日没から土曜の日没まで安息日がとなります。

 

天地創造の際、神が第七の日に全ての創造の仕事から離れて休息をとった(創世記2章2〜3節)ことが根拠とされていますね。

 

申命記にはイスラエル人だけではなく、男女の奴隷、家畜、寄留民まで全てが安息日を守るように命じられたと書かれていることに注意しましょう(5章12〜15節)

 

 

第五戒 あなたの父母を敬え(12節)

 

普通に考えれば、これは「両親を尊敬しなさい。親孝行をしなさい」というごく当たり前の日常的な徳目のように思えますね。

 

ですが、ここでいう父母は神が子に対してこれを養育し宗教生活に導くよう立てた第一義的な神的代理者であり、それ故に神を敬うように父母を敬うことが子に求められているのです(『旧約聖書注解1』p.157)

 

そのことから、この第五戒人と神との間に結ばれた契約のひとつとされているわけです。

 

 

第六戒 殺してはならない(13節)

 

ここで殺すの原語は רָצַחですが、これにはmurder, slayなどの意味があり個人による殺害を指し、隣人の生命の養護を目的としたものと考えられます(同上)

 

第七戒 姦淫してはならない(14節)

 

姦淫は一般的には不道徳な性交渉という意味になりますが、ここでは婚約もしくは結婚関係にある女性が婚約者もしくは夫以外の男性と性交渉をもつことを指しています(同上)

 

婚約者マリアが姙娠したのを知った夫ヨセフは律法に忠実な男だったので、表沙汰になる前に密かに婚約を破棄しようとした(マタイによる福音書1章18〜19節)というエピソードが思い起こされますね。

 

 

第八戒 盗んではならない(15節)

 

社会生活を営んで行く上で当然の教えといえますが、特にここでは他者の所有財産は神が他者に委ねた者である故に、それを盗んではならないという意味を持っています(『旧約聖書注解1』p.157)

 

 

第九戒 隣人に関して偽証してはならない(16節)

 

これは単に隣人について嘘を広めたり誹謗中傷をしてはいけないということではなく、裁判において偽証をしてはいけないという意味です。

 

そのことについては今日の朗読箇所の後、出エジプト記23章の(11)法廷においてや(13)訴訟においてなどに詳しく書かれています。

 

日ごろ殆ど裁判や訴訟とは無縁に生活している平均的な日本人にとってはピンと来ませんが、訴訟社会といわれるアメリカでは極めて大事な教えと言えるでしょう。

 

海外ドラマでアメリカの刑事ものや法廷ものを観るとperjuryという言葉が良く出てきますが、lying under oath(宣誓下での偽証)には場合によって重い刑罰が課せられます。その点、国会で「記憶にない」とか「思い出せない」とかで答弁が済んでしまう日本はどうなの?と思いますね。

 

第十戒 隣人の家を欲してはならない(17節)

 

これだけ読みますと、まるでバブル全盛期の日本で頻発した地上げ騒動のようですが、聖書には具体的に隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならないと書かれています。

 

妻を隣人のものというのは今日的には不適切な表現といわれるでしょうけれど、要するに隣人の財産を欲して取ろうとする欲望や意志を排し、相互の財産を養護しようとの要請ということになります(『旧約聖書注解1』p.157)。

 

以上、十戒を手短に考察してきました。3000年以上も前の出来事であった十戒の授与は現代に生きる私たちには全く無縁のことに思えます。しかし、その一つひとつをじっくり味わい、更にそれらの解釈や実践方法についても研究することは決して無駄ではないと思われます。