【中心聖句】
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた(15節)
今日の福音朗読にはイエスが「誘惑を受ける」(12〜13節)、「ガリラやで伝道を始める」(14〜15節)という見出しが付けられていますが、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)3福音書に記されている大変に有名な箇所です。
ですので、ここでは改めてストーリーを追うのではなく、いくつのポイントを見てまいりましょう。
まず、12節には「”霊”はイエスを荒れ野に送り出した」とありますが、この送り出したについてです。
この言葉の原語は ἐκβάλλωですが、これにはto drive,
to case or send out, driveなどの意味があります(G. Abbott-Smith "Lexicon" p.136)。
このはマルコにおいては16回出てきますが、そのうち12回は例えば「イエスは...多くの悪霊を追い出して」(1章33節)と書かれているように悪霊を「追い出す」という意味において使われています(雨宮慧『主日の福音ーB年ー』p.64)
ですので、この節は単に「送り出した」という中立的な表現ではなく「放り出した」とさえ訳されるべきでしょう。「イエスは霊に圧倒され、言わば強制的に荒れ野に追い立てられた」(同上)のが真意なのです。
聖書協会共同訳ではこの節は「霊はイエスを荒れ野に追いやった」と、より原文に近いニュアンスに改訳されています。
次に、見出しと13節に出てくる誘惑ですが、この原語はπειράζωです。この言葉にはto make proof of, to try, to attemptなどの意味があります(G. Abbott-Smith "Lexicon" p.351)。
ですので、「誘惑」でも誤訳とまでは言えませんが、これはむしろ「試み」「試練」ということになるでしょう。
聖書協会共同訳を見ますと、この節も「サタンの試みを受け」と改められています。
そして、15節の有名なイエスの言葉です。
まず、「時は満ち」の「時」ですが、この原語は καιρόςですが、これは良くχρόνος と対になって論じられます。この2つの言葉は元々、ギリシャ神話に由来するものです。
イエスが「時は満ち」と言った際の「時」が当時のユダヤ社会の中でどういう意味を持ったのか、これは古代ユダヤ社会における時間意識の問題となりますが、これについては改めて「ユダヤの時間意識」として別途、論じたいと思います。
最後に、15節の「福音を信じなさい」とイエスの言葉についてです。これを読んでも特に違和感はないだろうと思います。
しかし、原文を読むと「福音」が「信じる」という動詞の直接的な目的語になっていないのです。英語に訳すとbelieve in the Gopelとなり、日本語では「福音において信じなさい」といった直訳になります。
いずれにせよ、マルコの関心は、イエスがどのように試練を克服したかにはなく、イエスとともに終末が到来していると説くことにありました(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.44)