【中心聖句】
イエスが深く憐(あわ)れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。(41〜42節)
今日の福音朗読箇所はごく短いですが、大きく以下の三つに分けることができます。
40-42節 「重い皮膚病」を癒す奇跡
43-44節 沈黙を求めるイエス
45節 人のいない所にとどまるイエス
(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』教友社)
以前から度々触れているようにイエスの病気治癒奇跡には次のような基本的パターンがあります。
要素A 病状の描写
要素B 癒しの行為
要素C 治癒の証明
(雨宮慧『なぜ聖書は奇跡物語を語るのか』p.83)
それを踏まえた上で、3つのポイントを見てまいりましょう。
まず、41節の深く憐れんでという言葉です。
この言葉の原語はσπλαγχνίζομαιで、普通、「はらわた」の派生語で腹をゆするような憐れみを覚えることと解されています。しかし雨宮慧神父は底本の違いに基づき、この言葉はむしろ怒ってと訳すべきとされています。
イエスの怒りはこの病のむごたらしさあるいは病を生み出し神の創った秩序を破壊する悪霊に向けられているというのです(雨宮慧『主日の福音ーB年』pp.178〜9)
次に、43節の厳しく注意してという言葉です。
この原語はἐμβριμάομαιです。この言葉には鼻息荒く叱る、怒鳴りつけるという意味がありますが、これはは馬が怒って鼻を鳴らす様子から来ているということです(岩隈直『増補改訂新約ギリシャ語辞典』p.158)
雨宮神父はこの言葉に関して、ἐμβριμάομαは「立ち去らせる」と関係する可能性が強く、「鼻息荒く立ち去らせた」と訳すことも出来る、としておられます(雨宮慧『主日の福音ーB年』p.180)
とすれば、厳しく注意してという訳は誤訳ではないまでも迫力不足ということは言えるかもしれません。
聖書協会共同訳では彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせ、と改められていますので、だいぶニュアンスとしては強くなっていますね。
三番目のポイントですが、45節にイエスは...町の外の人のいない所におられたとあります。
先週の福音朗読でもイエスが早朝、人のいない所で祈っていた(マルコによる福音書1章35節)と書かれていました。
故稲垣良典教授によると、この「書き込み」の重要性を指摘したのが前教皇・ベネディクト十六世(ヨゼフ・ラツィンガー)でした。
ベネディクト十六世はこの「書き込み」の真の意味を理解することなしには「新約聖書において出会われるイエスの姿は、現実のものとして理解することが出来ない」と言い切っている、というのです(稲垣良典『神とは何か 哲学としておのキリスト教』p.201)
ベネディクト十六世のいう「現実のもの」とは「人となった神」キリストの実像であり、イエスは真の神である父との内面的な一致において、単に友としてではなく子として顔と顔を合わせての対話において生きていた(同上)のでした。



