【中心聖句】

すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった(5節)

 

今日の旧約聖書朗読箇所であるヨナ書は子どもに人気がありますね。教会学校の特に幼稚科や小学低学年にお話しをすると大喜びされます。

 

おそらく、主人公のヨナが大きな魚に呑み込まれ3日後に漸く吐き出されたというくだりが子どもの好きな怪獣のストーリーを連想させるのでしょう。

 

閑話休題(それはさておき)

 

今日の朗読箇所の中でヨナがニネベに入り「あと四十日すれば、ニネベの宮古は滅びる」と叫ぶと人々は神を信じた(4〜5節)とか神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことをご覧になり(10節)などという言葉からは雨宮慧神父が指摘されるように異邦の民でさえ預言者(ヨナ)の言葉を聞いて悔い改めた(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.147)というありきたりの結論を導きだしてしまいそうになります。

 

ただ、今日の箇所に先立つ1〜2章を読むと、ヨナは決して神の言葉に唯々諾々と従って預言者としてニネベに派遣されたわけではなかったことが分かるのです。

 

ヨナが生き方を変えて神に従うようになるには、荒れる海に放り出され3日3晩、大魚の腹の中で過ごしたあと漸く吐き出されるという、神による荒療治が必要でした。

 

改めて振り返ると聖書にはヨナに限らず預言者あるいはイエスの使徒とされた人々がすぐに神の言葉に従ったわけではないことが分かる箇所が多く出てきます。

 

礼拝説教などでも悔い改め回心という言葉がよく使われますが、生き方が変わるには人間の努力だけでは足りず神の何らかの形での介入が必要ということでしょう。

 

最後に、少し長くなりますがヨナ書を理解する上で大事なことだと思いますので、雨宮神父が本書の背景について述べておられる言葉をご紹介いたしましょう。

 

 メルヘンチックな物語ですから、肩ひじ貼らずに気軽に読めます。しかし、よく読むと、極めて深刻なテーマがあるのに気づかされ、考え込んでしまいます。

 ヨナ書は前五世紀以降の初期ユダヤ教の時代に書かれています。この頃、エズラやネヘミヤの努力によって、アイデンティティーを失いかけていた民が律法を中心とする共同体へと復活してしてゆきました。

 こうして、ユダヤ教の時代が幕をあけますが、律法を重視するあまり、異教に対して不寛容になり、偏狭な民族主義的な傾向を強めてゆきます。このような傾向への抗議としてヨナ書が書かれたといわれます(同pp.150~151)

 

 要するに、決して某考古学者が思いつきで言ったような「落語にすれば面白い話」などというお気楽なものではないということです。