【中心聖句】
主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
呼び求めよ、近くにいますうちに(6節)
今日の旧約聖書朗読箇所において先ず渇きや飢えを満たすのはわたしの言葉であって、それに聞き従うことによって初めて魂は命を得ることが出来る(1〜3節)と御言葉の力が語られます。
それは神がダビデと交わした約束でもありました。ダビデはかつて諸国民への証人、諸国民の指導者、統治者とされました(4節)
今、捕囚地バビロンから祖国にイスラエルの民が帰還することを目の当たりにする諸国民は彼らの元に馳せ参じようとするでしょう(5節)
それはイスラエルの民自身にとっても主に立ち帰るチャンスであり、主は彼らを憐れみ、赦してくれるのです(7節)
今日の箇所は、これまでも度々、読む機会があった第二イザヤ(イザヤ書40〜55章)の一部です。
預言者第二イザヤは、ペルシャ王キュロスが主によって油を注がれた人すなわちメシアであるとしました(45章1節)
それはバビロンに捕囚されていたイスラエルの民がエルサレムに帰還し神殿を再建することを通して諸国民つまり異邦人にも真の神が誰であるかを知らせるのが目的であると説いたのでした(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.37)
しかし私たちは普通、キュロスも結局はペルシャという異邦の王であって征服者の首がすげ変わったに過ぎず、イスラエルの民が被征服者であり続けることには代わりはない、と考えます。
それは当事者であったイスラエルの民にしても同じことで、だからこそ預言者はわたしの思いはあなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる(55章8節)と繰り返し、神の思いが人間の思いをはるかに超えている(同9節)ことを強調したのでしょう。
神の言葉は決して虚しいものではないことを預言者は繰り返します。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす(11節)

