学者たちはその星を見て喜びにあふれた(10節)

 

 

今日は「主の公現」の主日です。「公現」とは文字通り「公に現れる」という意味ですが、キリスト教信仰の立場からは

 

神が御子によってその栄光を諸国民に現して、すべての人の救いの源となられたこと、そして諸国の人がその招きに応じて信仰と希望をもって父である神のもとへ行くことを記念する祝い(高橋重幸『主日の聖書』)

 

ということになります。

 

今日の福音朗読箇所のストーリー自体は大変によく知られていますので、粗筋のご紹介は割愛し、いくつかのポイントを考察して行きましょう。

 

この出来事は4福音書の中でもマタイだけが伝えています。大きくは3つの段落に分けることが出来ます。

 

1〜2節 占星術の学者たちの来訪

3〜8節 ヘロデの陰謀

9〜12節  喜びにあふれる学者たち

 

「東の方」に住む占星術の学者たちが「ユダヤ人の王」の誕生を示す「星」を見、その「星」に導かれてはるばるエルサレムに来ます。暗い夜空に明るく輝き、夜道を急ぐ学者たちを導く「星」は象徴的な存在です。

 

「ユダヤ人の王の誕生」という学者たちの言葉に不安を抱いたヘロデは祭司長や律法学者などの「専門家」にその「王」が生まれることになっている場の伝承を問いただしました。彼らは聖書の言葉(ミカ書5章1節)の言葉を引用し、ベツレヘムと答えるのでした。

 

と同時に東方から来た学者たちには星の出現した時期を尋ねました。そして、彼らに「ベツレヘムでその子を探し出して私に知らせるように。私も拝みに行くから」というのですが、これは幼子を殺すために他なりませんでした。

 

エルサレムからベツレヘムに向かう学者たちの上には再び「星」が輝き、彼らを幼子のもとへ導きました。

 

11節は日本語では2つの文になっていますが、原文では

 

家に入って、子どもを見た

ひれ伏して、彼を拝んだ

宝の箱を開けて、贈り物を届けた

 

というふうに、「動詞の分詞形+動詞」という文型が3回繰り返されているのです。

 

そのことによって、真に「礼拝する」ことの出来るものを発見し、身を「献げる」ものに出会うことの出来た喜びが表現されているのです(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.33)

 

彼らはもはやエルサレムには戻らず「別の道を通って」帰って行きました。彼らは幼子が示す新しい道に向かって歩み始めたのでした(同上)