【中心聖句】

あなたがたの言うことは、全ての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。(37節)

 

今日の福音朗読箇所は3つに分けることができます(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.10)

 

1.   33節

2.   34節

3.   35〜37節

 

33節には「気をつけて、目を覚ましていなさい」とイエスの言葉がありますが、なんのために「目を覚ましている」かはいわれていません。それというのも実は「目を覚ましている事自体に意味があるから」(同上)なのです。

 

34節では非常に短い例えが語られています。

 

「家を後に旅に出る人」とはイエス自身、彼が「仕事を割り当て責任をもたせる僕」「目を覚ましているようにと言いつけられる門番」弟子たちを指しています。

 

35〜37節では 33節に対応する表現が使われていますが、大きな違いは「主人が帰って来る時」について「夕方」「夜中」「鶏の鳴くころ」「明け方」と様々な時間帯が挙げられていることです。

 

いつ主人が帰宅するのか僕や門番は分からない、つまり自分(イエス)がいつ来るのかお前たちには分からない、だからこそいつも備えていなさい、というわけです。

 

その「時」については

 

天使たちも子も知らない。父だけがご存知である(32節)

 

つまり、自分(イエス)すら知らない、知っているのは父なる神のみである、ということです。

 

しかもこの言葉は弟子たちだけではなく、現代に生きるわたしたちにも与えられている言葉です。

 

あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ(37節)

 

だいぶ以前、プロテスタント教会の多くの教派・教団が集まったエキュメニカルな集会に参加した際のことですが、何番目かに講壇に立った牧師が「日本にリヴァイバリが近い!」「日本にリヴァイバリが近い!」と30分近くひたすら絶叫し続けたので閉口し説教の途中で席を立ってしまおうと思ったことがありました。

 

あの牧師などは、このイエスの教えを本当には理解できていなかった、と今にして思うのです。

 

最後に、雨宮神父の次の言葉を引用して終わりにしましょう。

 

わたしたちは熱狂や狂騒に明け暮れることなく、静かに「目を覚まして」います(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.11)