「わたしたちの贖い主」

これは永遠の昔からあなたの御名です(63章16節C)

 

しかし、あなたの御業によって

わたしたちはとこしえに救われます(64章4節C)

 

早いもので新しい年(カトリック・B年)に入り、待降節を迎えしました。

 

今日の旧約聖書はいわゆる第三イザヤからになります。イザヤ書についてはおさらいになりますが、

 

1〜39章 第一イザヤ

40〜55章  第二イザヤ

56〜66章  第三イザヤ

 

と、通常3つに分けられるとされています。

 

今日のイザヤ書63〜64章第三イザヤに属しています。

 

第三イザヤが書かれたのはBCE538~500年ごろとされていますが、このBCE538年はペルシア王キュロスが勅令を発して捕囚民のバビロンからのユダ帰還エルサレム神殿再建を許可した年ですね。

 

キュロスの勅令により祖国に帰還したイスラエルの民ですが、そこで待っていたのは決してバラ色の人生ではありませんでした。

 

帰還を許されたとはいえペルシアの支配下におかれていることに変わりがなく、困窮生活が続きました。

 

約束されていた栄光がさっぱり現れそうもない現実に失望し、人々は神への信頼を弱め、勝手に行き始める(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.8)

 

という有様だったのです。

 

にも関わらず、第三イザヤは神への信頼を解きました。

 

雨宮神父が書いておられるように多くの人々が信仰を捨て去り自分勝手な行き方をする一方で信仰を保った人々は嘆き悲しみます。

 

あなたの統治を受けられなくなってから

あなたの御名で呼ばれなくない者となってから

わたしたちは久しい時を過ごしています(63章19節)

 

自分たちが罪を犯したが故に神が憤った(64章4節)ということを彼らは自覚しています。

 

それ故に彼らは神に向かって

 

「わたしたちの贖い主」

これは永遠の昔からあなたの御名です(63章16節C)

 

と呼びかけるのです。

 

贖いという言葉は贖罪つまり罪を償うという意味で目にしますが、普段はそれほど使いませんね。

 

イザヤ書のこの箇所での贖いの原語(ヘブライ語)は גָּאַל(ガーアール)ですが、この言葉にはact as kinsman(親戚として振る舞う)という意味もあります。

 

これだけだと何のことか分かりませんが、これは

 

子供がないうちに夫と死別した妻を娶る親戚や、身内が売り払った土地を買い戻す親戚に使われる(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.8)

 

ということなのです。

 

旧約聖書ルツ記にこのことに基づいた話が出てきますね。

 

イスラエルの民にとって神は「贖ってくれる親戚」のような存在でした。彼らは「贖い主」の業によって救われることを待望し続けるのでした。