それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた(8節)

 

Happy Easter !  イースターからいいスタート!

 

今日の福音朗読箇所に書かれているエピソードは共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とヨハネの4福音書すべてに書かれています。

 

今さら言うまでもないことですが、イエスの復活はキリスト教信仰の根幹をなすものですね。

 

このイエスの墓でのシーンは大変良く知られていますので、ストーリーそのものはここでは繰り返しません。

 

今日は2つの言葉に絞って見て行きましょう。

 

まず1つ目は1節に登場する「マグダラのマリア」です。

 

彼女は新約聖書全体の中でも聖母マリアに次いで有名な女性かもしれませんね。

 

ルカによる福音書によると、イエスに「7つの悪霊を追い出していただいた」(8章2節)ガリラヤ湖畔のマグダラに住んでいたマリアは他の女性たちと共に宣教活動を続けているイエスと弟子たちに同行して彼らの世話をしました。

 

イエスの受難に際しては十字架の近くにおり、埋葬を見守った内の一人に彼女がいました(マルコによる福音書15章41節、47節)

 

ルカによる福音書7章36節以下に書かれている「罪深い女」ラザロの姉妹マリア(ヨハネによる福音書11章1〜9節)はマグダラのマリアのことであるとされています。

 

以下はもちろん聖書には書かれていませんが、伝説ではエルサレムで宣教活動をした後、晩年にはイエスの母マリア、イエスの「愛する弟子」(ヨハネによる福音書19章26節)と共にエフェソに移り住んだと言われています。

 

また別の伝説では、キリスト昇天後に南仏マルセイユで隠遁生活を送ったとされています。

 

この伝説に基づいて書かれたのが「レンヌ=ル=シャトーの謎 - イエスの血脈と聖杯』(原題:The Holy Blood and the Holy Grail)です。

 

これはいわゆるトンデモ本に過ぎませんが、『ダ・ヴィンチ・コード』(ダン・ブラウン)などに影響を与えてしまったのも事実です。

 

さて、マグダラのマリアについてだいぶ長々と書いてしまいましたが、2番めに注目したい言葉は冒頭に掲げた8節にある「見る」という言葉です。

 

1節と6節にも「見た」という言葉が出てきますが、実はこの3つは原語では各々、別の言葉が使われているのです。

 

1節 βλέπω(プレボー)

6節 θεωρέω(セオーレオー)

8節     εἶδον (エイドン)

 

雨宮神父によれば短い単元の中でわざわざ違う言葉が使われている意味を知る手がかりは同じヨハネによる福音書16章16節にあります。

 

そこには

 

しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる

 

と書かれています。

 

ここに「見る」という言葉が2回出てきますが、 1回めの「見る」がθεωρέωであるのに対し、2回目は εἶδονの未来形が使われています。

 

2回めの「見る」は明らかに「復活したイエス」を「見る」ことをさしています。

 

20章に戻りますと、マグダラのマリアは墓から石が取り除かれているのを見た(1節)のでしたし、シモン・ペトロは墓の中に亜麻布が置かれていいるのを見た(6節)のでした。

 

つまり、彼らは物理的に「見た」のでした。

 

しかし、8節の「もう一人の弟子」は物理的に「見た」以上に洞察をし、16章でイエスが予告したように「見て、信じた」のでした。

 

信じるということに至るためには、肉の目で見ることのできる現象にとどまっていてはならず、その背後を洞察する目が必要(『主日の福音解説<A年>』)

 

ということでしょう。

 

 

参考:

 

雨宮慧

 『主日の聖書解説<A年>』教友社

  『主日の福音ーA年』オリエンス宗教研究所

  『小石のひびき 主日福音のキーワード(A年)』女子パウロ会

岩隈直『増補改訂 新約ギリシャ語辞典』山本書店

荒井献・H.J.マルクス監修『ギリシャ語新約聖書釈義事典III』

 教文館