わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る(4節)
今日の福音朗読はヨハネによる福音書9章、丸々1章です。
大変長いのですが、次の3つの部分に分けることができます。
1〜12節 盲人を癒やす奇跡
13〜34節 ファリサイ派による癒やされた盲人と彼の
両親の取り調べ
35〜41節 癒やされた人の信仰告白
これまでも何度かご紹介しましたが、イエスが病人を癒やしたり悪霊を追い出したりする場合には概ね次の3つの要素があります。
1.病状の描写
2.癒やしの行為
3.治癒の証明
上記のように今日の福音朗読箇所の冒頭1〜12節がこのパターンに従っていることは分かりますね。
その中でシロアムΣιλωάμについてはことさら「遣わされた者」という注釈を本文がいれていますが、これは「遣わされた者=イエス」を暗示するためということでしょう(『主日の福音ーA年』)
13節以下の長い箇所について新共同訳では「ファリサイ派の人々、事情を調べる」という見出しがついています。
13〜17節では「いやされた盲人」に事情を尋ねますが、それが信じられなかったためファリサイ派の人々は彼の両親を尋問します。
それでも埒が明かなかったため24節には「いやされた盲人」が再び尋問を受ける場面が描かれています。
長くなりますので、一つひとつのやり取りについては割愛しますが、注目すべきは22節に
ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放するとキメていたのである
と書かれていること、そして34節に
彼を外に追い出した
と書かれていることです。
この章の初めを見ますと、このエピソードが共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)には書かれていないことが分かります。
逆に言えば、福音書記者ヨハネにはこのエピソードを通じて伝えたい彼独自のメッセージがあった、ということになります。
雨宮神父に倣って結論を先取りしてしまえば、福音書記者ヨハネは
イエスの出来事をただ過去の思い出として語ったのではなく、一世紀末の状況として語っていた...きょうの福音の場合も、イエスが実際に行ったいやしの奇跡を述べるが、それを一世紀末の状況に合せて述べている。(『主日の福音ーA年』)
ということになるわけです。
ヨハネによる福音書の成立時期は一世紀末というのが定説になっています。
実はそのほぼ同じ時期、AD85年頃にユダヤ教徒が朝、昼、晩の毎日三回唱えると定められていた「十八祈願」(עשרה שמנה)の改訂が行われたと考えられています。
問題はその第十二祈願です。
雨宮神父の『主日の福音ーA年』からの孫引きになってしまいますが、それは次のようなものでした。
ナザレ人らと異端どもはまたたく間に滅び失せ、生命の書から消し去られ、義人とともにその名を記されることがないように。不義を退けたもう主よ、汝に栄光あれ。
ここでナザレ人とは「ナザレ人イエスをキリストと告白する者」のことです(『主日の福音ーA年』)
つまり、それまではユダヤ教指導者層やファリサイ派は律法に対する姿勢を問題にしていましたが、ここに至って「イエスを主と告白する」ことを断罪するようになった、ということです。
上記のように「いやされた盲人」の両親が会堂から追放されることを恐れ(23節)、また彼が「外に追い出された」(34節)
会堂を追い出された「いやされた盲人」が「主よ、信じます」と言ってひざまづいたのに対してイエスは
わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者はみえないようになる(39節)
参考
雨宮慧『主日の聖書解説<A年>』教友社
『主日の福音ーA年』オリエンス宗教研究所
『なぜ聖書は奇跡物語を語るのか』教友社
前田護郎『新約聖書概説』岩波全書
Gerard Sloyan "INTERPRETATION John"1988, Atlanta