神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない(24節)
今日の福音朗読は26節を境に2つに分かれます。
前半ではサマリアの町に入ったイエスが現地の女性と話す場場面が描かれています。
まず目につくのはイエスと弟子たちがサマリアを通ってガリラヤへ向かっていたという点です
通常ならばユダヤ人は南部からガリラヤに行くときは海岸沿いか一旦、東に向かってヨルダン川沿いに北上します。
にもかかわらず、イエスたちがサマリアを通り抜けようとしたのは、イエスに弟子たちが増え洗礼も授けていることがファリサイ派に伝わり(1節)イエスも身に危険を感じたということでしょう。
サマリアの歴史についてここでは詳述をしませんが、ユダヤ人とサマリア人の間には長年にわたる確執がありました。
更に、街なかで男性が見知らぬ女性に声をかけるということも考えられないことでした。これは必ずしも2000年前のイスラエルに限った話ではありません。今日でも例えばイスラム教の社会ではその「伝統」が守られています。
7〜15節に書かれているイエスとサマリアの女との会話では
与える、飲む、生きた水という言葉が繰り返されます。
イエスの「水を飲ませてください」(7節)は雨宮慧神父によると直訳では「わたしに飲むことを与えてください」となりますが、これは
イエスが最初からのどの渇きを癒やす水と「生きた水」とを区別しているから
とのことです(『主日の聖書解説<A年>』)
それに対してサマリアの女性は初め、サマリアの歴史を踏まえて皮肉交じりに煩悶します。
しかし、イエスが「生きた水」について話し、彼女は不完全ながらも「生きる水」に興味を示し、「その水をください」と願い出たのです(同上)
16〜26節では「礼拝の場所」についての問答が行われますが、イエスは
あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る(21節)
と応えます。
続けてイエスは
まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。(23節)
と言います。それに対する女の応えが
メシアが来られることを知っている。その方が来られるときには、一切のことを知らせてくださいます(25節)
すでに「その時」が来ているのに彼女は気が付きません。
そこで、イエスは
このわたしである(26節)
と教えます。
人間の側からの努力だけでは、真理の探求には限界があります。サマリアの女がメシアについて正しく理解するにはイエスによる啓示が絶対に必要だった(『主日の聖書解説<A年>』
ということでしょう。
結論部分にあたる39〜42節では、女からイエスについて聞いた町の人々の反応が書かれています。
42節に
わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。
という、町の人々の言葉が書かれています。
この言葉は、せっかく話を伝えてくれた女に対して大変に失礼な言い分ですが、
イエスがメシアであると伝えた女の働きは重要ですが、宣教者の言葉はその人自身を遥かに超えて、それを聞いた人々を直接イエスに向かわせる(『主日の聖書解説<A年>』)
ということになります。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<A年>』教友社
『主日の福音ーA年』オリエンス宗教研究所
さらに、この女性と町の普通の人々との間の「壁」もあるようです。「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」(18節)。彼女はイエスにこう言いあてられます。罪びとというよりも、男運に恵まれず、つらい思いを繰り返し、心が深く傷ついている女性と見るべきではないでしょうか。しかし、この町での彼女の評判は決して良くなかったのでしょう。当時、水汲みは女性の仕事でした。女たちは朝や夕方に水汲みに集まり、そこでさまざまな情報交換(文字どおり、井戸端会議)をしました。「正午ごろ」(6節)に水を汲みに来たこの女性は、他の女性たちと顔を合わせたくなかったのではないかとも考えられます。
イエスはどのようにこれらの「壁」を乗り越えていったのでしょうか。イエスは自らも疲れ、渇く者としてこの女性に出会いました。「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」(6節)と言われますが、きょうの箇所の直前に、イエスの活動が誤解され、ユダヤに留まることができなくなったという記事があります(1-4節)。イエスの疲労の原因の一つには、人々の無理解に直面したこともあったのかもしれません。だとすれば、このイエスの姿は、町の人とのつながりを失っていたこの女性の苦しみと通じ合うものがあるとも言えるでしょう。
(3) 水はいのちのシンボルです。「生きた水」(10,11節)は、ヨハネ7章37-39節では「聖霊」を意味していますが、ここでは「人を真に生かすもの」と考えればよいでしょう。イエスは一方的に、彼女に対して「わたしがいのちの水を与えよう」と言うのではありません。まず、イエスのほうが「水を飲ませてください」(7節)と言って彼女と関わり始めます。イエスの彼女との関わり方には、「あなたも渇くし、わたしも渇く」という連帯性が感じられるのではないでしょうか。この連帯性の中で、男性と女性の間の壁、ユダヤ人とサマリア人の間の壁、評判のよい人と評判の悪い人の間の壁が乗り越えられると言えるのではないでしょうか。
「霊と真理による礼拝」(23,24節)。霊は「神からの力」であり、真理は「イエスにおいて現されたこと」だと言えるでしょうか。ただし、ここでは、あまり難しく考えず、単純に「真心をもって」と受け取ってもよいのかもしれません。ここにも人と人とを隔てる壁を乗り越える道を見いだすことができるでしょう。
(4) イエスとの出会いによってこの女性は変えられました。それまで彼女は町の人々を避けてきたのかもしれませんが、イエスに出会った彼女は「水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません』」(28-29節)。この女性はイエスのことを告げ知らせる者になっていったのです。そして、その彼女の言葉を町のサマリア人たちは受け入れ、イエスを信じるようになっていきました。
27節から、帰ってきた弟子たちとの間で、イエスご自身のミッション(派遣・使命)の話になります。弟子たちは自分たちで食物を手に入れてきましたが、イエスは別なところに弟子たちの目を向けさせます。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(34節)。食べ物も人を生かすもののシンボルです。イエスを真に生かすものは、神からのミッションを生きることなのです。そして「刈り入れ」について語り始めます。ヨハネ4章の中での「刈り入れ」とは、心に傷を負った女性とサマリアの町の人々とイエスとの間で心が通じ合ったということだと言ったらよいでしょう。目の前でもうすでに神の救いの働きが実現しているのだ・・・わたしたちもそれに気づくことができるでしょうか。