見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。(6節)
3節で「不平を述べた」と訳されているלוּןは「ぶつぶつ(文句を)言う」という意味ですが、本文のコンテクスト(文脈)絡みた場合、雨宮慧神父によると
(イスラエルの民が)モーセの指導力に疑問を投げかけ、「指導者として不適格とみなす」といった意味合いを持っている(『主日の聖書解説<A年>』)
とのことです。
ユダヤ研究家の手島佑郎氏はこの「モーセが指導者として不適格」という問題についてマネジメント的な視点から次の密の要素を挙げておられます(『出エジプト記ー混迷を超えるプロジェクト』)
1.月並みな発想
2.権力主義的な態度
3.トップに立つ者としての思い上がり
まず、1.月並みな発想と2.権力主義的な態度についてです。
2節に、民の不平に対してモーセが
なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか
と応えた、と記されています。
まず、「わたしと争うのか」という言葉からは
なぜ、わたしに逆らうのか。わたしの言うことが聞けないのか。
と、頭ごなしの言葉を口にし、権威・権力を振りかざす人物像が浮かんできます。
今ですとすぐにパワハラで訴えられてしまいそうですね。
なぜ、主を試すのかという言葉からは
いくら神様と言えども、砂漠のど真ん中で水を供給することなど出来ないではないか
という、ごく当たり前の発想がうかがえます。
例えば社長が一般の社員と同じような発想で仕事をしていたら恐らくその会社の将来は
要するに、頭ごなしに民の不平を抑えつけようとする割にはモーセが人並みのありふれた発想しか出来ていないことが露呈してしまったわけです。
イスラエルの民が
モーセのやつ、偉そうなことを言ったって結局はオレたちと対して考えていることは変わらないじゃないか!
と思ったとしても無理はありませんね。
そして、あまつさえモーセは神に泣きつくのです。それが、4節の
わたしはこの民をどうすればよいのですか
という言葉です。
手島氏はこのモーセの言葉に彼の「思い上がり」を見るのです。
要するに、上に立つものとして相応しい発想も出来ないくせにこの後に及んでリーダーぶろうとする姿勢が見て取れます。
これは社長というよりも部下にはやたらと厳しいくせに全く実務能力がないために何か問題が起こると結局は上に泣きつくしかない年功序列だけで課長になった中間管理職の姿そのものですね。
そのモーセに対して神が
分かった、わたしがなんとかしよう
と応えたかというと、それほど甘くはありません。
神はモーセに
民の前を進め(5節)
と命じます。この言葉の原語はעָבַרですが、それには「通り抜ける」という意味もあります。
つまり、神はモーセに
民はお前をリンチしようと待ち構えているかもしれないが、逃げずに彼らの間を通り抜けよ、脇道に逃げることは許さない
と言ったのでした。
意を決したモーセが神に命じられたように進んで行き、「ナイル川を打った杖」で岩を打つと水が溢れ出てきたのでした。
聖書はこの単元を
イスラエルの人々が「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである
(7節)
という言葉で結んでいます。
これだけ読むと、この単元の主人公は「イスラエルの人々」のように思えますが、やはりそれはモーセでしょう。
イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった(申命記34章10節)
とさえいわれた偉大な預言者モーセであってもいざとなると人間の弱い部分をさらけ出してしまった、そのことを隠さずに書いているのもまた聖書の面白さと言えるかもしれませんね。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<A年>』教友社
『図解雑学 旧約聖書』ナツメ社
手島佑郎『出エジプト記ー混迷を超えるプロジェクト』ぎょうせい