中村逸郎『ろくでなしのロシア プーチンとロシア正教』2013年2月20日、講談社

 

 

 

 

ロシアによるウクライナ侵攻が始まった昨年2月以降、TV各局の「情報番組」では例の「コロナの女王」と入れ替わるかのように中村逸郎氏の姿をしょっちゅう見かけるようになりました。

 

実は本ブログ管理者は加齢のために聴力がだいぶ衰えており中村氏のしわがれ声が殆ど聞き取れないため敬遠していたのです。

 

ウクライナ侵攻から早くも一年以上が経過した今日、改めて中村氏の著書を読んで色々と教えられることがありました。

 

まず、『ろくでなしのロシア』といういささか衝撃的な本の題名ですが、これはウクライナ人の言葉ではなく、著者が実際に耳にしたロシア人自身の言葉です。

 

あるとき、著者はモスクワ滞在中、郊外に住む友人を訪ねるためバスに乗っていました。

 

突然、何人かの乗客たちが騒ぎ出しました。降りるはずの停留所をバスが通過してしまったので彼らが運転手を問い詰めると、運転手は平然と「〇〇停留所は撤去された」と答えたというのです。

 

この乗客たちはその日の朝、その停留所から乗車してモスクワ都心に向かったのです。つまり、なんの予告もなく日中に停留所が撤去されていたのです。

 

その時に著者が耳にした罵声が「ろくでなしのロシアめ!」という言葉だったのです。

 

バス停が予告なしに撤去されるなど、日本の常識からすればまるで嘘のような話ですが、いわゆる開発途上国などではありえることかもしれません。

 

日本語でこれにあたる表現があるかどうか分かりませんが、アメリカ英語では”Only in America!"というのがあります。

 

これは例えば、いくら訴訟大国アメリカといってもさすがに常識では考えられないようなとんでもない巨額の民事訴訟が提起されたときなどに「アメリカでしか考えられないよ!」というようなニュアンスで使われますね。

 

さて、本書では副題にあるように「プーチンとロシア正教」の深い関わりについて論じられています。

 

本書のあとがきには「三十人を超える正教会の聖職者と出会った」とありますので、ネット情報のコピペなどではなく、いわゆる第一次資料になります。そういった意味でも貴重な資料の一つと言えるでしょう。

 

本ブログが特に注目したのは次の3点です。

 

1.「聖人プーチン」

2.正教会の巨大な利権

3.「聖地」としての「北方領土

 

まず、1.「聖人プーチン」についてです。

 

実際にハリストス正教会の聖堂に入ってみると気が付きますが、聖堂内にはイコン(聖画像)がたくさん置かれています。プロテスタントの信徒からするとちょっと異様な光景ですが、これらのイコンは崇敬の対象です。

 

崇敬の対象としての聖画像ですから描かれているのは当然、イエス・キリストや聖母マリアその他、聖人です。

 

(ロシア正教会のイコン)

 

1812年9月に燃え盛るモスクワ市街地をナポレオンが立って見下ろしたという「雀が丘」に立つジヴォナチャーリナヤ・トローイツァ寺院を訪れた中村氏は寺院に入ってすぐ縦1m横50cmほどのプーチンの肖像画を目にしました。

 

早速、信者に声を掛けてみると「プーチンは聖人ではない」と答える人もいれば「プーチンは英雄でもあり、聖人でもある」と答える人もいました。この寺院の司祭は「モスクワ市内の多くの教会がプーチンのポートレートを掲げている」と話したそうです。

 

これは2009年12月末の出来事ですが、それから13年以上経った今、「プーチンのポートレート」を掲げる教会が増えているのか減っているのか興味のあるところです。

 

いずれにせよ、聖画像と並んでプーチンのポートレートが掲げられている光景は異様としか言いようがありません。

 

次に、2.正教会の巨大な利権についてです。

 

1994年末、ロシア政府の「人道支援委員会」は人道支援という名目の下で正教会が外国からワインとタバコを非課税で輸入し販売する許可を下しました。これにより、教会の入口付近にある売店で外国産のワインとタバコを安く購入できるようになったというのです。

 

ただ、「教会がワインとタバコの販売なんてもっての他!」と生真面目な日本のクリスチャンなら怒り出しそうなものですが、西欧のカトリック教会においても修道院がワインやビールを製造・販売する伝統はありますので、これ自体はそれほど目くじらを立てることでもなさそうです。

 

(イタリア・トスカーナ地方の修道院とブドウ畑)

 

本ブログがむしろ驚いたのは正教会が複数の民間企業と「国際経済協力協会」なるものを組織し、原油の輸出に乗り出し、さらには未加工ダイヤモンドの販売権も取得したというのです。

 

つまり正教会は1990年代半ばに「国際コングロマリット」と呼んでもおかしくない巨大企業へと成長して行ったということです。

 

それから四半世紀ほど経っていますので現状、特にロシアへの経済制裁が強まって以降の状況は分かりませんが、驚くべきことですね。

 

いわゆる「陰謀論者」の人たちは好んで「ユダヤ金融資本の世界支配」や「バチカンの闇」を取り上げますが、原油やダイヤモンドが絡む正教会のビジネスのほうが闇が深いかもしれません。

 

そして、3.「聖地」としての「北方領土」です。

 

中村氏が2007年に取材したサハリン州正教会主教管区トップのダニール主教はサハリン州とクリール諸島(千島諸島)を統括するトップですが、彼は自分の役割を「国境警備隊員」としていたとのことです。

 

ダニール主教にとって、クリール諸島(「北方領土」)と北海道の間にある「国境線」は「ロシア人の『精神的な国境線』」だというのです。

 

2010年に中村氏が取材した時点で「北方領土」では国後島に3棟、択捉2棟、色丹1棟に加えて納沙布岬のわずか5km沖にある水晶島にも1棟、それぞれ礼拝堂が建っていたとのことです。

 

(水晶島の教会 内閣府HPより)

 

90年代後半、「北方領土」に対しては日本から港湾整備や地熱発電所建設などの経済支援が行われました。

 

しかし、実際には「正教会を基軸に愛国主義的な、さらには民族主義的な言動が活発化しており、北方領土に住むロシア人のロシア化が進行している」と中村氏は見做していました。

 

モスクヮやセント・ペトルブルグ在住の一般市民の大半は「北方領土」については全く無知かもしれません。

 

逆に言えば、だからこそ地元民の民族主義、愛国主義はむしろ先鋭化するということなのでしょう。

 

ロシア寄りの発言が目立つ鈴木宗男参議院議員が先日、「日本が対ロシア経済制裁を解除すれば北方領土は返還される」と発言したそうですが、それは余りに楽観的な見方というべきでしょう。

 

ここまで、本ブログが特に関心を持ったテーマ3つを簡単に取り上げてきましたが、これらの背景にあるキーワードが

 

「第三のローマ」

「古儀式派」

 

の2つです。

 

「第三のローマ」は読んで字の如く、ローマ帝国のローマ、東ローマ帝国のビザンチン(コンスタンチノープル、現イスタンブール)に続いてモスクワが「第三のローマ」になろうとすることです。

 

また、「古儀式派」は「17世紀半ばにロシア正教会の改革に抵抗し旧来の典礼を守って分離した人々」とされています。

 

あいにく本書ではこの2つについて余り詳しく触れてはいませんので、それらの歴史的な背景、特にロシア革命前後からの動向などについては別の文献から改めて学ぶことにいたしましょう。

 

ロシア正教どころか元々キリスト教そのものに疎い日本メデイアの「情報番組」が本書のテーマを正面から扱うことは考えられません。

 

ですので、大変に興味深く読み進むことが出来たのですが、最後に敢えて苦言を一つ。

 

それは、巻末に掲げられている「参考文献」が全てロシア語で表記されているということです。

 

「あとがき 追記」によれば、「本研究は公益財団法人三菱財団第三十九回(平成二十二年度)人文科学研究助成の成果の一部である」とのことですので、元々は学術論文として執筆されたものを一般読者向けに書き改めたもののようです。

 

とすればなおさら「参考文献」には日本語の文献および日本でも入手可能な英仏独語の文献を加えていただきたかったと思います。