わたしは主である(18節)
今日の旧約聖書朗読はレビ記からです。
レビ記は主として祭司が行う儀礼や祭祀全般にわたる律法を集めたもので、それらはユダヤ教の核となりました(『図解雑学 旧約聖書』)
そのうち、17〜26章は新共同訳聖書の見出しにもあるように「神聖法集」と呼ばれています。
今日の朗読箇所が含まれる19章では「十戒と種々の法による社会倫理」が述べられています(『主日の聖書解説<A年>』)
2節では
あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。
と、「聖なる者」という言葉が繰り返されています。
この「聖なる」の原語は形容詞קָדוֹשׁですが、形容詞形、名詞形そして動詞形を合せて旧約聖書中、最も多く120回も使用されているとのことです(『口語旧約聖書略解』)
つまり、レビ記にとっての最大の関心事は
卑しく罪深き人間が、いかにしていと高き聖なる神を礼拝することが出来るか(同上)
にあるというのです。
「聖なる者として守るべき種々の法」は18節の
自分自身を愛するように隣人を愛しなさい
という言葉に集約されています(『主日の聖書解説<A年>』)
「同胞を率直に戒めなさい」(17節)という掟は彼に罪を侵させない為です。
また17〜18節の
「心の中で兄弟を憎んではならない」(17節)
「復讐してはならない」
「民の人々に恨みを抱いてはならない」
という掟は復讐や恨みという悪から自分を解き放つためです(同上)
レビ記というと、1章冒頭にいきなり家畜を捧げ物とする際の所作が事細かに書かれ、その後もこれでもかこれでもか、とばかりに律法についての詳細な記述が行われています。
特に11〜15章などは読んでいても途中で聖書を投げ出したくなるような内容です。
実際、これらの細かい規定が今日の世界に生きる私たちになんの関係があるのか?という疑問が沸き起こってしまい、どうしてもレビ記全体を敬遠してしまいます。
ですが、先ほど読んだ「復讐」や「恨み」を戒める掟から思い浮かべるのは、
人を呪わば穴二つ
という言葉です。
この言葉は恐らく平安時代の「陰陽師」に由来するものとされていますが、今日でも実感をもって語られますね。
なぜ、人は「兄弟を憎まず」、「復讐せず」、「他人に恨みを抱かず」生きていくことが出来るのか、それは
自分自身を愛するように隣人を愛しなさい(18節)
と言われる隣人愛とは
復讐や恨みという悪から自分を解き放つ力
なのです。
参考
雨宮慧『主日の聖書解説<A年>』教友社
『図解雑学 旧約聖書』ナツメ社
浅野順一、左近義慈他編『口語旧約聖書略解』日本基督教団出版部
William L. Holladay "A Concise Hebrew And Aramaic Lexicon Of The Old Testament" 1971, Michigan