人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである(16節)
今日の福音朗読箇所の見出しにもなっている
地の塩、世の光
はクリスチャンなら誰でも知っている超有名な聖句ですね。
ですので、今さら考察することもないように思えますが、今日は従来の解釈とはひと味違う異説をご紹介しましょう。
その前に先ず確認しておきたいことがあります。それは
あなたがたは地の塩である(13節)
あなたがたは世の光である(14節)
と、「...である」と直説法になっていて、「...になりなさい」という命令でもなければ、「...であるように」という祈りもしくは祝福の言葉でもないということです。
つまりそれは
弟子たちの今の姿を端的に示す(『主日の福音(A年)』)
ものであり、
イエスの言葉に招かれた人はすでに「地の塩、世の光」(『主日の聖書解説<A年>』
なのです。
そこで、改めて取り上げたいのは「地の塩、世の光」という言葉です。
本ブログでも度々ご紹介している聖書研究者・故前島誠氏の解説を読んだ時には正に「目からウロコが落ちる」思いでした。
念の為ですが、この「目からウロコが落ちる」も新約聖書の言葉ですね(使徒言行録9章18節)
閑話休題(それはともかく)
塩も光も人間生活には欠かせない、生命を維持して行く上では必須のアイテムであることには間違いがありません。
ですから、イエスも弟子たちに
塩気の無い塩は捨てられる(13節)し、光は燭台の上に置かれる(15節)
と言っているわけです。
ここで前島氏は「『地』の塩」「『世』の光」とイエスがわざわざ言っていることに注目しています。
「地の塩」というのは岩塩から塩を取ると考えれば特に不思議はないかもしれません。
しかし、岩塩を含む土地が農業に適さないのは言うまでもありませんし、牧羊に必要な草地すらできないことになります。
イスラエル南部にあるいわゆる「死海」はヘブライ語ではים המלח」(塩の海)と呼ばれています。
「地の塩」は地元民、特に農民にとっては決して歓迎すべきものではないわけです。
同様に、「世の光」も砂漠では決して歓迎すべきことではありません。
砂漠地帯では日中は余りに日差しが強く気温も上昇して動きがとれません。人々がいきいきと動き出すのは日が暮れてからということでしょう。
ユダヤ社会の根幹ともいうべき「安息日」が金曜日の日没から土曜日の日没までであることが思い出されます。
イエスが弟子たちにお前たちは
地の塩、世の光である
と言ったということは、彼らに
敢えて嫌われ者となれ。嫌われても言うべきことは言う、やるべきことはやる(『ユダヤ人 心の壁を破る法』)
というメッセージを与えたということなのです。
更に言ってしまえば、イエスが弟子たちに
お前たちは地の塩、世の光である
と言った時、実は彼自身についても言っていたとも考えられるのです。
参考
雨宮慧『主日の聖書解説<A年>』教友社
『主日の福音ーA年』オリエンス宗教研究所
前島誠『ユダヤ人 頭の壁を破る法』三笠書房
『ナザレ派のイエス』春秋社