このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった(22節)
婚約者マリアが妊娠していることを知ったヨセフは大いに困惑した。
旧約聖書申命記には
ある男が婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない(22章23〜24節)
という規定が書かれています。
つまり、律法に従えばマリアは「石打ちの刑」に処せられてもおかしくなかったわけです。
そこでヨセフはマリアを離縁することを考えます。
19節に
夫ヨセフは正しい人であった
と書かれています。
この「正しい人」というのはいくつかの意味が含まれていると思われますが、第一には律法を忠実に守る「正しいユダヤ人」ということでしょう。
その立場からすればマリアが石打ちの刑で処刑されてもやむを得ないということになります
しかし彼自身、恐らくまだ年若いマリアをそのような目に遭わせるには忍びず、事が大きくなる前に離縁しマリアをどこかに逃してやろうと考えたのかもしれません。
当時の女性の結婚適齢期から考えると、マリアは恐らく13〜14歳くらいだったのではないかと思われます。
そのヨセフの夢に主の天使が現れて
この出来事が聖霊によるものであるから恐れずに彼女を受け入れるように(『主日の聖書解説<A年>』)
と諭し、更に
生まれる男の子はイエスと呼ばれること、そしてイエスが人々を救うこと(同上)
と告げるのでした。
福音書記者マタイはここで今日の旧約聖書朗読箇所であるイザヤ書の言葉を引用しています。
ただ、注意深く2つの引用を見比べてみると、イザヤ書では
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ(7章14節)
と書かれているのに対し、マタイでは
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる(23節)
となっています。
少し詳しく見ると、
イザヤ書:「呼ぶקָרָא(カーラー)」の主語が3人称女性単数
マタイ:「呼ぶκαλέω(カルー)」は3人称複数
となっています。
つまり、イザヤ書でインマヌエルと呼ぶのは「身ごもったおとめ」であるのに対し、マタイでは人々ということになります。
こうして、
眠りから覚めたヨセフは、天使の言葉に従ってマリアを受け入れる(『主日の聖書解説<A年>』)
こととなりました。
そして、それによってイエスはダビデ王の系譜に入れられることとなったのです。
新約聖書を初めて手に取った人はきっと驚かれるに違いありません。
というのは、聖書がイエスの伝記に違いないと思って読み始めるといきなり人の名前がずらずらと出てくるからです。
表題には「イエス・キリストの系図」とあり、冒頭に
アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図(1章1節)
とありますが、実際にヨハネの名前が出てくるのはこの「系図」の最後の方なので、見落としてしまうかもしれません。
そこで、並行記事のルカによる福音書を見ると
イエスはヨセフの子と思われていた(3章23節)
と書かれていて、ヨセフから遡りダビデも通り越して神にまで至っています。
ヨセフが天使の言葉に従ったことによって
聖霊によって生まれた子がダビデの血筋に入れられ...救いが人々にもたらされることとなった(『主日の聖書解説<A年>』)
のです。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<A年>』教友社
『主日の福音ーA年』オリエンス宗教研究所
前島誠『ナザレ派のイエス』春秋社