わたしにつまづかない人は幸いである(6節)
今日の福音朗読では牢に収監されている洗礼者ヨハネがイエスのもとに弟子たちを送って、ある質問をさせます。
その質問は
来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方をまたなければなりませんか(3節)
というものでした。
先週の福音朗読箇所を覚えておられれば、この質問は奇異に思われるはずです。
というのは、洗礼者ヨハネは「後から来られる方が聖霊と火で洗礼をお授けになる方」(11節)と解っていたはずだからです。
そこで、何故ヨハネがこのような質問をしたのかが問題となります。
このことに関しては、
自分から離れようとしない弟子たちをイエスの方に向けさせるため
とか
「イスラエルの人々があなたをメシアと認めていますか」とイエスの身を案じた上での質問だった
などの解釈もあります(高橋重幸『主日の聖書』)
しかし、これらの解釈には無理があると言ってよいでしょう。
ヒントとなるのは2節の
ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた
という言葉です。
先週の朗読箇所でヨハネはイエスについて
手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる(3章12節)
と言っていました。
つまり、ヨハネはイエスを「裁きを行う人」として理解していたということになります。
ところが、ヨハネが聞いたイエスは病んだ人々を癒やしたり、悪霊を追い出したり、説教をしたりという活動ばかりをしていたのでした(4〜10章)
イエスが
およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった(11節)
と言ったヨハネですら、イエスの言動の真意を理解することは出来ませんでした。
「裁きを行う地上の王」としてではなく「貧しい者への福音」(イザヤ書61章)を伝えるためにこの地上に来たイエスの姿は後々まで多くのユダヤ人にとってつまづき(6節)となりました。
正に
洗礼者ヨハネは、メシアのへりくだりにつまづいた最初の人だったかもしれない(高橋重幸『主日の聖書』
のです。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<A年>』教友社
『主日の福音ーA年』オリエンス宗教研究所
高橋重幸『主日の聖書』オリエンス宗教研究所
Douglas R.A. Hare "Interpretation: A Bible Commentary for Teaching and Preaching Matthew" 2009 Louiville