神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によっていきているからである。(38節)

 

エリコを経ていよいよエルサレムに入ったイエスは日々、神殿の境内で日々教えています(19章47節)

 

そのイエスのところにやって来たのがサドカイ派の人々でした。

 

良く知られているように当時のユダヤ教には大きく三派がありました。

 

先ず第一は今日、登場しているサドカイ派です。

 

サドカイ派はギリシャ語でΣαδδουκαῖοι、ヘブライ語צְדוּקִיםです。

 

サムエル記下に書かれている(8章17節)ダビデ王の配下のアヒトブの子ツァドク(צָד֧וֹק)に由来すると考えられています。

 

このツァドク(צָד֧וֹק)という人名は「義」や「正義」を意味するצֶדֶקと関連しますので、日本語でいえば義男、義人といった名前になりますね。

 

サドカイ派の特色は聖書の内でもいわゆる「モーセ五書」つまり成文律法だけを遵守した点にあります。

 

身分としてはユダヤ社会の中枢にあり、上級祭司、貴族、豪商などの富裕層でした。福音書に「祭司長」という言葉がしばしば出てきますが、彼らはサドカイ派でした。

 

神殿での祭儀が中心であったため、AD80年にローマ帝国によって神殿が破壊されると歴史の舞台から姿を消したのでした(『ナザレ派のイエス』)

 

残りの二派はファリサイ派エッセネ派ですが、これらに触れていると長くなりますので、また別の機会に取り上げることにして今日のところは割愛します。

 

つまり、当時のユダヤ社会では最上流階級であったわけで、それを念頭に置くと、今日のやり取りは少し変ですね。

 

なぜなら、上流階級のサドカイ派がガリラヤの片田舎から出て来たイエスに敬語を使い、逆にイエスは彼らにたいしてタメ口です。

 

当時の階級社会から考えればあり得ないことですが、これは日本語に翻訳した際にそうしか訳せなかったということでしょう。

 

この敬語vsタメ口を取っ払うとまたかなりこの場面の印象が変わって来るだろうと思います。

 

さて、今日の朗読箇所ですが、決して長い単元ですが、読んでいて途中でウンザリしてしまいますね。

 

というのも28~36節のやりとり、特にサドカイ派の言っていることは私たちからするといかにも「議論のための議論」と見えてしまいます。

 

しかし、ここで思い起こしたいことはユダヤ人というのはそもそも議論好きな民族だということです。

 

元カトリック司祭で玉川大学教授であったユダヤ教・キリスト教研究者の故前島誠氏

 

「ユダヤ人が二人寄ると、三つの意見が生まれ、四つの政党ができる。しかも、そのいずれもが正しい」とさえ言われる(『ユダヤ賢者の教え』)

 

という俗説を紹介しておられます。

 

私たち一般の日本人なら

 

まあ、議論は大概この辺にしておいて

 

と切り上げたくなるところですが、ユダヤ人は徹底的に議論をするということですね。

 

ただ、一つ気を付けたいのは、確かにサドカイ派の人々はイエスに議論を吹っかけてきてはいますが、それは決して彼らが思いつきで無理難題を吹っかけているわけではない、ということです。

 

28節に

 

モーセはわたしたちのために書いています

 

とあるように、これは申命記25章5節以下に「家名の存続」と題された規定の極端な例を仮定し

 

もし復活があるなら、こんなバカげたことが起こるではないか

と主張している(『主日の福音ーC年』)

 

ことになるのです。

 

「モーセ5書」のみを拠り所とするサドカイ派が復活に否定的な立場であったことは今日の単元の最初に

 

復活があることを否定するサドカイ派の人々(27節)

 

とはっきり書かれています。

 

それに対するイエスの答えが34節以下です。

 

まず、35節では

 

次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々はめとることも嫁ぐこともない

 

と述べて、サドカイ派の議論がそもそも無意味である、とします。

 

更に、37節では

 

死者が復活することはモーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している

 

とし、サドカイ派が唯一の拠り所としている「モーセ五書」の中から出エジプト記3章の言葉を逆手にとって反論を加えているわけです。

 

律法の規定を敷衍する形で仕掛けられた議論に同じ律法を根拠として反論したイエスの姿勢には学ぶ点がありますね。

 

自称キリスト教徒のカルト関係者から論争を吹っかけられた時、正しく聖書に基づいて反論することはとても重要だからです。

 

ただ、最後にひと言、先ほどの出エジプト記3章6節の言葉が復活に関係があるというのはいささか疑問があり、何故、サドカイ派がそこにツッコミを入れなかったのかは不明です。これについては改めて検証したいと思います。

 

いずれにせよ、

 

神によって始められた関係は死によって断ち切られはしない。

神の誠実さのゆえに必ず続く。復活は契約に忠実な神への信仰である。(『主日の福音ーC年』

 

ということなのです。

 

参考:


雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社

   『主日の福音ーC年』オリエンス宗教研究所

前島誠『ユダヤ賢者の教え』知的生き方文庫(三笠書房)