息を引き取る間際に、彼は言った。「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。」(9節)
今日の旧約聖書続編朗読はマカバイ記二からです。この書はBCE124 年に書かれたとされています。
今日の朗読箇所では王という言葉が繰り返し出てきますが、この王とはシリア・セレコウス朝のアンティオコス四世です。
アンティオコス四世は若い頃、人質としてローマに居住していてそこで教育を受け、ヘレニズム(ギリシャ風文化)の絶対的信奉者となりました。
彼はエジプトとの戦争に勝利したのち、エルサレムを占領し、神殿から数々の財宝などを略奪し、神殿内にギリシャの神ゼウスの像を立てるようなことをしました。
更に、それに留まらずイスラエル人を徹底的にヘレニズム化しようとまでしたのでした。
1節に
七人の兄弟が母親と共に捕らえられ、鞭や皮ひもで暴行を受け、律法で禁じられている豚肉を口にするよう、王に強制された。
とあるように、律法で禁止されている禁忌を破ることを強制までしたのです。
良く知られているように、ユダヤ教及びイスラム教では豚を食べることが禁じられていますが、それについては旧約聖書レビ記11章に
いのししはひづめが分かれ、完全に割れているが、全く反芻しないから、汚れたものである。これらの動物の肉を食べてはならない(7~8節)
と規定されています。
「放蕩息子のたとえ」(ルカによる福音書15章11~32節)には尾羽打ち枯らした息子が「遠い国」で豚の世話をするところまで零落したというエピソードがあります。
彼が「遠い国」つまり異邦人の地まで流れて行き、ユダヤ人の目からすれば最底辺の暮らしをしていたことが分かりますね。
2節以降には王がこの七人の兄弟を虐殺する様子が克明に描かれています。
読んでいて気分が悪くなってしまいますので、その部分は引用しませんが、注目すべきは9節に二番目の兄弟の言葉として、
邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。
と記されていること、さらに14節には四番目の兄弟の言葉として
たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなたは、よみがえって再び命を得ることはない。
ということです。
つまり、これらの言葉の中に「復活」への言及があるのです(『主日の聖書解説<C年>』)
実は、旧約聖書においてはBCE3世紀以前に書かれたものには復活信仰はありません(同上)
むしろ、詩編88編に
あなたは地の底の穴にわたしを置かれます
影に閉ざされた所、暗闇の地に(7節)
とか、
あなたが死者に対して驚くべき御業をなさったり
死霊が起き上がって
あなたに感謝したりすることがあるでしょうか(11節)
などとあるように、むしろ復活に対しては否定的でした。
だいぶ以前ですが、ある教会の主日礼拝で牧師が「イサクの奉献」を主題とする説教をし、その中で
アブラハムは神様がイサクを復活させてくれると分かっていたので喜んで彼を生け贄として献げようとした
と言っているのを聞いて、それこそ椅子から転げ落ちそうになったことがありました。
この牧師がどこで旧約聖書神学を学んだのか分かりませんが、筋違いも甚だしいですね。
雨宮慧神父は、そのような伝統の中、BCE3世紀になって復活信仰が現れてきた要因として
1.黙示思想の登場
2.迫害による殉教者
を挙げておられます(『主日の聖書解説<C年>』)
今日の朗読箇所に登場する7人の兄弟のように
神を信じて殉教した者が死の支配下に置かれ続けるのはおかしなこと(同上)
だからです。
山本七平氏が指摘しているように、
マカバイ記その他の旧約外典(旧約聖書続編)は歴史的にも神学的にも旧約と新約との橋渡し(『聖書の常識』)
となっています。
とすれば、先日も言いましたように、プロテスタント教会においても、さすがに主日礼拝の説教では無理だとしても平日の聖書研究会や祈祷会で読んでみる価値はあると思います。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社
『図解雑学 旧約聖書』ナツメ社
山本七平『山本七平ライブラリー15 聖書の常識』文藝春秋