しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすであろうか(8節)
今日の福音朗読箇所は3つの箇所に分かれています。
1節:導入
2~5節: たとえ話
6~8節: 結論
このエピソードは他の福音書にはなく、また17章の文脈とも繋がっていないので、どういう状況での話なのかは分かりません。
ただ、1節の導入句に
気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された
とありますので、弟子たちの中に
一向に自分の祈りが聞き届けられない
とか、
どう祈って良いのかわからなくなった
などの事態が考えられます。
2~5節の短いたとえ話には二人の人物が登場します。
一人は
神を畏れず人を人とも思わない裁判官(2節)
もう一人は
やもめ(3節)
です。
当時、律法学者が民事のもめ事を取り仕切ることが行なわれていたようですが、ここでは「神を畏れず」とあることから律法学者ではないと考えられます。
また「不正な」(6節)は雨宮慧神父によれば「この世に属している」という意味にとることができます(『主日の聖書解説<C年>』)
ですので、この場合の「裁判官」は、町か村の有力者で住民に民事上の係争が起こった時に調停に乗り出す、ただ当事者からの裏金でどちらにも転ぶような人物だったのかもしれません。
一方、やもめという言葉は現代では余り用いられないと思いますが、古代社会においては最も弱い存在の一つだったはずです。
やもめさんが町の有力者のところへしょっちゅうやって来ては「ちゃんと相手をさばいてわたしを守ってください」としつこく訴えたのでした(3節)
雨宮慧神父によれば
「裁いて守る」の原語ἐκδικέωはこの場合「不当な扱いを受けている者の権利を守り正義をもたらす」という意味(『主日の福音ーC年』)
とのことです。
この女性がどういう係争に巻き込まれていたのかは分かりませんが、やもめとわざわざ言っているからには相続絡みのいざこざがあったのかもしれません。
最初は相手にもしていませんでしたが、余りにしつこいので裁判官もついに音を上げて調停に乗り出した、お話はそれだけです。
そして、このたとえの結論は
この不正な裁判官でさえ最後は根負けしてやもめの頼みを聞いた、まして神が「昼も夜も叫び続けている」(7節)人々をいつまでも放っておくだろうか(同)
ということです。
この7節の「(神は)いつまでもほおっておかれるであろうか」という句は原語ではμακροθυμέωというただ一つの単語です。
その元々の意味は
I suffer long, have patience, am forbearing, perseverance
などとなっています(Strong's)
神は罪深い人間が悔い改めるのを待って怒りを抑えている(『主日の福音ーC年』)
のです。
具体的に何があったのかは書かれていませんが、冒頭に書いたように弟子たちの間に祈りに疑問を持ち始めた者、信仰が揺らぎつつある者がいたのかもしれません。
そのため、今日の単元が
人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか(8節)
というイエスの言葉で締めくくられているとも考えられます。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社
『主日の福音ーC年』オリエンス宗教研究所
Strong's Concordance