わたしの仕える主は生きておられる(16節)

 

今日の旧約聖書朗読は「列王記下」からです。

 

「列王記上・下」ダビデ王の最晩年からバビロンに囚われていたユダ王国(南王国)ヨヤキン王の解放・名誉回復に至る約400年の歴史物語です。 

 

今日の朗読箇所に登場するエリシャエリヤの後を継いだ預言者で(列王記下2章1~18節)で、BCE9世紀半ばから8世紀初頭にかけてイスラエル王国(北王国)で活動しました。

 

列王記下2章19節から4章の終わりにかけて預言者エリシャが行なった数々の奇跡が描かれています。

 

今日の朗読箇所では、「重い皮膚病」を患っていたアラム(今のシリア)の軍司令官ナアマンに捕虜でナアマンの妻の召使であったイスラエル人少女がエリシャに会って癒してもらうことを勧めたのでした。

 

正直なところ、イスラエル王国に比べれば大国のアラムの将軍がいくら妻の召使とは言っても敵国の一少女の勧めに従うというのはちょっと考えにくいですね。

 

それだけ病状が深刻でアラムの医師たちにも手の施しようがなくナアマンとしても藁にも縋る思いだったのかもしれません。

 

意を決してエリシャを訪れたナアマンでしたが、エリシャは直接、彼に会おうともせず

 

ヨルダン川で7回、身を洗えば体は元に戻り清くなる

 

と使いの者に伝言をさせたのでした(10節)

 

ナアマンは怒ってそこを立ち去ったというのですが、その気持ちは良く分かりますね。

 

彼にしてみれば、

 

評判が良いからというので、わざわざサマリアくんだりまで来てみれば、この扱いとは何事か!

 

というわけです。

 

ナアマン

 

神の名を呼びながら大きな身振り手振りでご祈祷をしてくれると思っていた(11節)

 

のですから、すっかり当てが外れてしまったわけです。

 

ところで、この列王記ではエリシャのタイトルとして「神の人」という言葉がしばしば登場します。

 

私たちにとっては余り耳慣れない表現ですが、これは事実上、預言者と同じと考えてよいのです。

 

イエール大学のRobert R. Wilsonによると

 

「神の人」と預言者とは元々は性格を異にするものであり、この2つの言葉は別々の地域で使われたものだったかもしれないが、今となっては立証するすべがない("Prophecy And Society In Ancient Israel" p.140より抄訳)

 

とのことです。

 

ただ、この言葉を繰り返し使っているというところに何らかの作者の意図が隠されているのは恐らく事実でしょう。

 

閑話休題(それはともかく)。

 

怒ってその場を立ち去ろうとしたナアマンを部下たちが引き止め、おそらく渋々でしょうが、彼が伝言の通りヨルダン川に7度浸ると体はすっかり「清く」なりました。

 

恐縮したナアマンは部下を引き連れエリシャのところに引き返し、お礼を渡そうとしますが、エリシャは受け取ろうとしません。

 

そしてエリシャが言ったのが冒頭に引用した16節の言葉でした。

 

エリシャは如何にもそれらしい所作をしたわけではありません。ただ指示を与えただけでした。

 

彼は

 

自分の力ではなく、神の言葉が癒したと知っていた(『主日の聖書解説<C年>』

 

のです。

 

参考:

 

雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社

   『図解雑学 旧約聖書』ナツメ社

Robert R. Wilson "Prophecy And Society In Ancient Israel" 1980, Philadelphia