もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、 たとえ死者の中から生き返る者があっても、 その言うことを聞き入れはしないだろう(31節)
今日の福音朗読箇所の文脈を追ってみます。
先週の福音朗読箇所では「ある金持ち」の財産を管理している者の不正がイエスのたとえ話のテーマでした。
続く14~17節では「金に執着するファリサイ派」が登場します。
そして今日の福音朗読箇所では
いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた(19節)
金持ちとこの金持ちの門前に放置されている、今の言葉でいえばホームレスのラザロという人物が出てきます。
22節以下では、この2人が死んだ後、金持ちは陰府(ハデス)で火にさいなまれ、一方のラザロは天国の宴席でアブラハムのそばにいます。
このように前の方から文脈を追って行くと、今日のたとえ話は
生前に散々、遊び暮らしたものは地獄に行き、生前に苦労した者は天国に行く
という、まるでイソップの「アリとキリギリス」の結論のように思えます。
確かに、アブラハムの金持ちに対する言葉として
子よ、思い出してみるがよい。 お前は生きている間に良いものをもらっていたが、 ラザロは反対に悪いものをもらっていた。 今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ(25節)
と、記されています。
お前は毎日ぜいたくに暮らしている一方で、家の門のそばに横たわっているラザロには目もくれようとしなかった、犬でさえ彼のできものを舐めて癒そうとしていたのに。だから、地獄に墜ちるのは当たり前だ。お前はそこから這い上がって来ることさえ出来はしないのだ。
というアブラハムの冷酷な宣言ということです。
しかし、金持ちのくせにすぐそばにいる困った人を助けないようなやつは地獄に墜ちて当たり前、という「因果応報」でこのたとえ話を捉えるのでは不十分でしょう。
「施し」はユダヤ教の伝統的な教えの中でも最も重要なものの一つであることは事実です。
しかし、この「施し」は単に現代社会でいう慈善ではありません。
「施し」の原語 צדקה には慈善や親切などの意味もありますが、おそらくそれ以上に重要なのは「正義」という意味もあることです。
つまり、金持ちがラザロを助けなかったのは単に「冷たい」とか「思いやりがない」などということではなく、そもそも「正義に反する」ことだったのです。
ですから、ユダヤ人の祖というべきアブラハムがこの金持ちを叱責したのは当然です。
この金持ちの行いでもう一つヒントになることがあります。
それはたとえ話の最初にもどりますが、
毎日せいたくに遊び暮らしていた(19節)
という言葉です。
「毎日」とあるからにはもしかするとこの金持ちは十戒の重要な戒めの一つである「安息日を守る」(出エジプト記20章8節)ことすら疎かにしていたのかもしれません。
これこそ「万死に値する」罪です。
金持ちはアブラハムに「父アブラハムよ」(24節)と呼びかけることによって自分が正しい血統、紛れもない正統なユダヤ人であることを訴えます。
しかし、それも空しいことです。
たとえ話の中のアブラハムは次のように冷たく突き放すのでした。
もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、 たとえ死者の中から生き返る者があっても、 その言うことを聞き入れはしないだろう(31節)
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社
『主日の福音-C年』オリエンス宗教研究所