あなたがたは、神と富とに仕えることはできない(13節)
今日の福音朗読箇所は扱うのが難しいように思われます。
新約聖書学者のKenneth E. Baileyは
Preachers, interpreters and teachers of the Bible often avoid it like the plague ("Jesus Through Middle Eastern Eyes)
と言っているほどです。
確かに
主人は、この不正な管理人の抜け目ないやり方をほめた(8節)
とか
不正にまみれた富で友達を作りなさい(9節)
とかいう言葉を字義通りと、ちょっと首をかしげてしまうからです。
ここでは、ちょっとやっかいなこの単元について雨宮慧神父の解説を見ておきましょう。
雨宮神父によれば、「たとえ」が8節前半で終わるとみるか、8節後半まで続くとみるかで「たとえ」の解釈は大きな影響を被ります。
まず、「たとえ」が8節前半までだと考えると、
主人は管理人が身の危機に機敏に対応したことをほめた(『主日の聖書解説<C年>』)
ということになります。
そして、8節後半の
この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている
という言葉は
世間一般の人たちでも身に危険が及んだ場合には賢く、機敏にふるまうものだ。終末が迫っている中でお前たち光の子(つまりイエスの弟子たち)も世間の知恵に学ばなければならない
という教えだということになるわけです。
もう一つの解釈として8節後半まで「たとえ」が続くと考えます。
その場合、
当時、表向きは貸付金に利子をつけることが禁じられていたため、金利を上乗せした金額を負債として証文を作成することが普通に行われていたが、管理人はその金利分を抜いた負債に証文を書き直した
ということになります。
そこで
彼の行為は不正を行ったどころかイスラエルが守るべき律法に立ち帰ったものであり、債務者も喜んで主人に感謝したため、主人も怒るに怒れなくなり、結局は彼を誉めた(『主日の聖書解説<C年>』)
というわけです。
「不正にまみれた富」とはあらゆる不正な手段を使って得た富というよりは「この世的な富」という意味です。「この世」は元々、不正に満ちているからです。
ですので、イエスはこのたとえ話を通して
この世の富は自分のために貯めこむのではなく、友をつくるために用いるべきであり、それが永遠の命への道だと教えていることになる(同上)
というのです。
この解釈のほうが10節以下の繋がり具合も良いということになります。
ただ、管理人が事前に主人の許可を得ずに勝手に書き換えた証文がそもそも有効なのか、という疑問が残りますが、それは当時の商習慣を調べてみないと断定はしかねますね。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社
『主日の福音ーC年』オリエンス宗教研究所
Kenneth E. Bailey"Jesus Through Middle Eastern Eyes: Cultural Studies in the Gospels"( IVP Academic , 2008)