一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある(10節)
今日の福音朗読では有名な「99匹の羊と1匹の羊のたとえ」が語られます。
まず、1~3節は導入部分になります。
イエスの話を聞こうと集まって来たのは徴税人や罪人たちでした。
徴税人つまり税を徴収する人というと税務署の職員を思い浮かべてしまいますね。
当時のユダヤ社会での徴税人とは、元々はローマ帝国の下請けとして軍需品の調達、公共工事監督更にローマに替わって税の徴収を行っていました。
ユダヤ人でありながら同胞からローマ帝国の税を徴収するのですから、当然のことながら蛇蝎のごとく嫌われていました。
また、本国に送金すべき税金に上乗せして徴収し、その差額を自分の懐に入れてしまう者も多かったようですから、なおさら嫌われてしまったわけです。
罪人とは要するにユダヤ社会の律法に悖る行為をした、あるいはしている者たちでこの中には娼婦たちも含まれていました。
彼らがイエスのもとに集まって来るのを見て、ファリサイ派や律法学者たちが
このイエスは徴税人や罪人に話をするだけではなく、食事まで一緒にしやがる
と文句をいいました(2節)
彼らにしてみれば
救われるべきは清く正しく生きている人々であり、徴税人や罪人などとんでもない(『主日の聖書解説<C年>』
ということになるわけです。
そこで、イエスは3つのたとえ話を語ります。
3番目の「放蕩息子のたとえ」が最も有名ですが、それは11節以下になるため、今日の福音朗読には含まれていません。
イエスがまず語ったのは、15章の見出しにあるように「見失った羊のたとえ」でした。
羊や羊飼いは私たちにとっては日ごろ全くなじみがありませんが、イエスの言葉を直に聞いた人々にとっては分かりやすいたとえだったのでしょう。
イエスのたとえ話は時としてちょっと極端な状況であることがありますが、このたとえ話そして8節以下に書かれている「なくした銀貨のたとえ」などもそういうことがいえるでしょう。
そこで「見失った羊のたとえ」では
100匹の羊のうち1匹を見失ったら99匹を野原に残してでも探し回るだろう(4節)
というのです。
実はここに新共同訳の誤訳があります。
これだけ読むと、99匹の羊がのんびりと牧場で草を食んでいる間に1匹を探し回る、という文字通り牧歌的な情景を思い浮かべますが、
ここで野原と訳されているἔρημοςは本来、荒野と訳されるべきなのです。
そう訳して初めて、99匹を野獣や羊泥棒がいるに違いない荒野に残してでも1匹を探しに行く、という切迫感が出てくるのです。
そして、そのような危険な状況から救い出したからこそ、友人や近所の人々と共に無事を喜ぶことが出来るわけです。
なお、聖書協会共同訳ではこの「野原」は「荒れ野」と直されています。
この「見失った羊のたとえ」はマタイによる福音書18章12~14節に「並行記事」がありますが、そこでは現場は「山」とされています。
このマタイによる福音書の並行記事のストーリー自体はほぼ同じですが、たとえ話の教訓は異なっています。
つまり、マタイによる福音書では
小さな者を軽んじたり、滅ぼしたりしないようにと教える(『主日の福音解説<C年>』
ことが主眼となっているのに対して、ルカによる福音書では
神から離れていた罪人を見出したときの神の喜びを描くためのたとえ(同上)
と考えられるのです。
そう考えれば、8節以下の「無くした銀貨のたとえ」の意味もははっきりします。
このたとえでは
ドラクメ銀貨10枚のうち1枚をなくした女性が家中を探し回って見つけたら近所の人や友達を呼び集めて喜びを分かちあう
というのです。
聖書巻末の『度量衡および通貨』によると
ドラクメはデナリオンと等価で1ドラクメは1日分の賃金にあたる
とのことです。
ですので、今の日本の感覚でいうと8千円~1万円くらいということになるでしょうか。
そうすると、確かに必死に探した銀貨を見つければ嬉しいには違いありませんが、隣近所に触れ回るというのはかなりオーバーな話ですね。
ここでもやはりポイントは
離れてしまったと思われた者を見つけ出した神の喜び
が強調されている、といってよいでしょう。
最後にもう一点。
銀貨の場合はもちろんですが、迷い出た羊の場合も迷子になったのに気付いた羊があちこち歩きまわっているうちに羊飼いに出会ったのではないということです。
羊が迷い出てしまったことに気づいた羊飼いが探し出してくれたのでした。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社
『主日の福音ーC年』オリエンス宗教研究所
G. Abbot-Smith "A Manual Greekk Lexiconn of the New
Testament"