自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。(27節)
今日の福音朗読箇所には「弟子の条件」という見出しがついています。
大勢の人々がイエスの後からぞろぞろとついて来ますが、彼らに向かってイエスは
わたしの弟子ではありえない
と、3度も繰り返しています。
そして、イエスは「弟子の条件」について述べるわけです。
今日の朗読箇所を読む際に気を付けたいのは、キリスト教系のカルトが悪用しかねない言葉が使われているということです。
まず、
父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない(26節)
という言葉です。
「親を憎め」「親から離れろ」というのは如何にもカルト宗教が教えそうなことですね。
「憎む」の原語 μισέωは字義通り訳すと確かに「憎む」です。
しかし、それには「より少なく愛する」「より重んじない」という意味もあります。いま日常的に使われる言葉でいうと「少し距離を置く」というニュアンスでしょうか。
次に、
自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない(27節)
という言葉です。
「自分の十字架を背負う」という言葉は今でもよくいわれますが、大体において「自分が犯してしまった取り返しのつかない過ちを一生かかえて生きていく」という意味でつかわれているのではないでしょうか。
雨宮慧神父はこの十字架について
共に生きるべき相手、しかもあるがままの、欠点に満ちた相手のこと(『主日の聖書解説<C年>』
としておられます。
親兄弟や友人、職場の上司や同僚について「こうあるべき」という勝手な理想像を持ち、現実がその理想像と異なるとすっかり相手のことを嫌いになったりするということは良くあります。
しかし、
勝手に自分が思い込んだ理想像を捨て去り、あるがままを受け入れることが相手を「憎み」、「十字架を背負う」ことの意味だ、
ということなのでしょう。
それは自分自身にもいえることです。
先ほどの26節には
自分の命であろうとも憎まないなら
というイエスの言葉がありました。
「命」のギリシャ語 ψυχήには
the vital breath, breath of life, the human soul, the soul as the seat of affections and will, (d) the self, (e) a human person, an individual (Strong’s)
等の意味がありますが、雨宮慧神父はそれを
欲望や感情を含め、人間の内面生活の場としての心(『主日の聖書解説<C年>』
としておられます。
私たちは「自分はこうあるべき」「自分は本来こういう人間だ」という理想像を描き、現実がそれと異なると落ち込んでしまします。
落ち込むだけならまだよい方で勝手に親兄弟や他人、果ては社会全体に恨みを抱くなるようになります。
正に逆恨みですが、ここ何十年か、日本でもそういうことがきっかけの事件が頻繁に起こっています。
自分の心の内にある想いや夢を捨て、あるがままの自分として生きること、それが自分の十字架を背負って生きることの意味なのです。
33節にはイエスの
自分の持ち物を一切捨て
という言葉が記されています。
これはもちろん、
自分の財産全てを教団に寄付して
と言う意味ではありません!
ここでイエスは
金品などの所有物だけではなく、自分が思い描いている「夢」などからもいったん離れて自分について来ることが出来ること、それが自分の弟子である条件だ
と言っているのです。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社
『主日の福音ーC年』オリエンス宗教研究所