あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである(40節)
今日の福音朗読ではイエスが2つの例え話をします。
まず注目したいのは、その舞台が夜だということです。
当時の婚宴は2時間や3時間で終わるものではありませんでした。
ですので、婚礼に呼ばれて出かけた家の主人がいつ帰って来るのか分かりません。
しかし、主人がいつ帰って来ても良いように「腰に帯を締め」(35節)つまり服装をちゃんと整えて待っていなさい、というのです。
そうすれば、今度は帰宅した主人が僕のために給仕をしてくれる。
考えてみれば、いくら下僕が起きて待っていたからと言って主人が彼らのために給仕をしてくれるというのはさすがに無理のある話のようですね。
しかし、別の福音書には次のようなイエスの有名な言葉が記されています。
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである(マルコによる福音書10章45節)
「人の子」とはイエス自身を指しています。
つまり、婚礼からの帰りがどんなに遅くなっても目を覚まして待っていた僕のために夜食の給仕をしてくれる主人とはイエス自身のことなのです。
37節や38節で「目を覚ましている」と訳されている元のギリシャ語は γρηγορέω(グレーゴレオー)です。
雨宮慧神父によると、この言葉は
キリスト者の特徴を表す言葉として初代教会で多用された(『主日の聖書解説<C年>』
とのことです。
ルカによる福音書が書かれた時代、また初代教会の時代には既にイエス・キリストの再臨の遅れが懸念されていました。
直ぐにでも起こると思っていたイエスの再臨がなかなか実現しない。
キリスト教徒たちにとってはトンネルの先に光の見えない、まさに生きづら闇の時代だったわけです。
そのような中にあって、ちょうど夜半にやってくる強盗がふいに襲ってくるのと同じく、イエスも何の前触れもなく突然やってくるというのです。
しかし、目を覚ましていれば強盗に不意に襲われる心配がないように、キリスト教徒も目を覚ましていればイエスの突然の再臨を喜んで迎えることが出来ます。
一般の人が眠っている間にもしっかり目を覚ましているのがキリスト教徒の姿なのです。
目を覚まして待っているキリスト教徒はやがて預言者イザヤが預言した主が主催する「終末の宴」に招かれます。
万軍の主はこの山で祝宴を開き
すべての民に良い肉と古い酒を供される。
それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
(イザヤ書25章6節)
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社
『主日の福音ーC年』オリエンス宗教研究所