自分tのために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ(21節)

 

今日の福音朗読箇所には「『愚かな金持ち』のたとえ」という見出しが付けられています。

 

短い単元ですが、次の3部分に分けることが出来るでしょう。

 

1. 導入(13~15節)

2. 例え話(16~20節)

3. 教訓(21節)

 

まず、導入部分では12章冒頭にあるようにイエスが群衆と話をしていることが明らかにされます。

 

そして、その群衆の一人がイエスに

 

わたしにも遺産を分けるように兄弟に言ってください(13節)

 

と頼みますが、それに対してイエスは

 

自分はそういうことを調停する裁判官や調停人ではない(15節)

 

と断ったうえで、

 

どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい(15節)

 

と述べ、たとえ話を語り始めます。

 

良く考えてみると、このイエスの答えはちょっと妙ですね。

 

群衆の一人が「遺産を分けて欲しい」と言っているのに対して「貪欲に注意せよ」と言うのです。

 

私たちの今の感覚からすれば兄弟で遺産を分けるのは当然ですが、古代ユダヤ社会での話ですので、長男以外が遺産をうけようとするのは貪欲に他ならない、ということでしょうか。

 

次にたとえ話ですが、ここではたとえ話のあらすじよりも雨宮慧神父に倣って、ある言葉に注目することにします。

 

19節に

 

こう自分に言ってやるのだ。

 

と書かれています。これだけですと特に問題も感じず、読み流してしまいます。

 

ですが、原文を直訳すると

 

私は自分の魂に言うだろう、魂よ...

 

となるのです。

 

興味深いのはこの魂という言葉です。

 

原文のギリシャ語では ψυχή(プシュケー)ですが、雨宮神父によるとこの言葉にはさらに奥があり、それはヘブライ語の נֶפֶשׁ(ネフェシュ)という言葉だというのです。

 

Strong’s Concordanceによると、このנֶפֶשׁ(ネフェシュ)には

 

a soul, living being, life, self, person, desire, passion, appetite, emotion

 

などの広い意味があり、通常、「魂」とか「命」とか訳されます。

 

ところが、雨宮神父によると

 

もともとの意味は食物摂取器官としての「口」とか「喉」(『主日の福音-C年』)

 

である、というのです。

 

「魂」とか「命」とか言うと私たちは普通、胸や心臓を思い浮かべ、喉が魂というのは不思議ですね。

 

雨宮神父によると

 

ヘブライ的思考法によれば、人間の、ある器官は、その機能と密接につながる人のありようとか役割を表す(同上)

 

とのことです。

 

要するに、この金持ちにとって「魂」を満たすこととは「口」や「喉」を満たすことに他なりませんでした。

 

イエスはたとえ話を始める前に

 

人の命は財産によってどうすることもできない(15節)

 

と言いましたが、ここでの「命」にあたる原語は ζωή(ゾーエ)です。

 

それに対して、たとえ話の結論部分いあたる20節に書かれている

 

今夜、お前の命は取り上げられる

 

という時の「命」は ψυχή(プシュケー)です。

 

つまり、イエスの言葉の中で愚か者が大切にする「命」(魂)と人間が持つべき「命」がはっきりと区別されているということです。

 

「自分のために富を積んでも神の前に豊かにならない者」(21節)はζωή(ゾーエ)を持つことが出来ないのです。

 

参考:

 

雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社

   『主日の福音-C年』オリエンス宗教研究所