逸身喜一郎『ラテン語のはなし 通読できるラテン語文法』
(大修館、第17刷2017年9月1日)
暫く前、ラテン語を改めて勉強する必要を痛切に感じました。
遥か昔、大学の教養課程で選択科目としてラテン語を履修した際の教科書が手もとに残っているのですが、まず全体を俯瞰したいと思い、Amazonの「レビュー」を参考に本書を購入した次第です。
各課の冒頭には例えば"cogito ergo sum"(7課)などの有名な言葉が掲げられ、それを分析する形でラテン語文法の要点が解説されています。
何人の方がAmazonの「レビュー」が指摘しておられるように、活用表が次から次へと出て来てそれを覚えてるだけの無味乾燥な文法書に比べれば気楽に手に取ることが出来ます。
小生も、先ず全体を通読し必要に応じてより詳細な文法書を傍らに置きながら再読すれば良いくらいの気持ちで読み進めていきました。
しかし、終盤の第44課で止まってしまいました。そこに非常におかしなことが書かれていたからです。
先ず、241頁の二段落目冒頭には
旧訳聖書の『創世記』
と書かれています。
これは単純な変換ミスだと思いますが、ゲラの段階で著者本人もしくは編集担当者が気が付かないといけませんね。
もっとも、私たちも日頃やってしまいがちなミスですので、これについては余り深く追求するのは止めておきましょう。
問題はそれに続く第三段落です。
そこには
新約聖書の『マタイ福音書』の有名な句(7章12節)をもじったらしい「俗解」らしき出展不明な句を研究社の『大英和』に見つけたが
と書かれています。
そこで念のために研究社『新英和大辞典 第5版』(第2刷1981年)の巻末にある"Foreign Phrases And Quotations"を当たってみたところ、そこにはラテン語の成句として
quod tibi fieri non vis, alteri ne facias
(L) What you do not wish done to yourself, do not to another (cf. Matt. 7:12)
と記載されていました(p.2476)
逸身氏はこれを
新約聖書をもじったらしい出展不明な「俗解」
と決めつけたわけです。
しかし、これは逸身氏のとんでもない誤解なのです。
日本聖書協会発行の聖書の旧約聖書続編はカトリック教会では「第二正典」とされていますが、その「続編」の中に「トビト記」という書があります。
そのトビト記の4章15節には
自分が嫌なことは、ほかの誰にもしてはならない。
と書かれています。
トビト記が書かれたのはBCE170~150年頃と考えられています。
ですから教師としてのイエスと彼の弟子たちがこの言葉を知っていたと考えてもおかしくはありません。
元玉川大学教授でキリスト教学・ユダヤ教学がご専門であった故前島誠氏はユダヤ教の口伝律法を集めた『タルムード』に収められているエピソードを紹介しておられます。
少し長くなりますが、面白い逸話なので引用いたしましょう。
なお前一世紀からイエスの青年期にかけて、パリサイ派には注目すべき指導者がいた...ヒレルとシャンマイである。時の学生たちのほとんどは、イエスも含めてこの二人の教えの影響を受けたと言っていい。例えばこんな話がある。
ある求道者がシャンマイのもとを訪れてこう質問した。「私が片足で立っている間に、トーラーのすべてを教えてください。」 シャンマイは怒って、手もとにあった建築用の物差しを振りあげ、その求道者を追い払った。
そこで彼はヒレルを訪ね、同じ質問を投げかけた。ヒレルは答えた。
「自分が人からされて嫌なことは、人にしてはならない。これがトーラーのすべてである。あとはその解説にすぎない。行って学ぶのだよ」(前島誠『ナザレ派のイエス』春秋社p.203)
イエスは
「自分が人からされて嫌なことは、人にしてはならない」
というユダヤ教の伝統的な教えを知っていて、敢えてそれを「~してはならない」という禁止の命令から「~しなさい」という肯定的な命令に逆転させたと考えられるのです。
そして、そのイエスの言葉を聞いていた人々、さらに後年マタイによる福音書を読んだユダヤ人たちも、その逆転にピンと来たに違いありません。
上に引用した『新英和大辞典 第5版』中の言葉は逸身氏のいうようにイエスの言葉をもじったものであったというより、むしろ逆にイエスがヒレルの教えをもじったというべきでしょう。
逸身氏は46課に入っても
前の課でいいかけた『マタイ福音書』もどきの『あなたにされたくないこと、云々』(p.244)
と書いています。
残りが後40ページでしたので何とか読み終えましたが、少々うんざりしてしまいました。
ここまで書くと逸身氏や担当編集者は
自分たちはクリスチャンではないから、聖書の細かいところまでは分からなくて当然
とおっしゃるでしょう。
ですが、マタイによる福音書のこの言葉は『黄金律』と呼ばれていて、ヨハネによる福音書3章16節の
神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された
という聖句などと共にいわば新約聖書そしてイエスの教えの神髄をなしているのです。
私は常々、我が国の西洋哲学や文学、歴史の研究者たちがキリスト教について余りに無知であることを残念に思っています。
別にクリスチャンになれというわけではありません。
新旧約聖書の中の重要な言葉やユダヤ教、キリスト教全般についての基礎的な知識くらいは身に着けておいて欲しいのです。
特に現代においては、玉石混交であるにしてもネット上からだけでもかなりの情報を得ることは可能なのですから。