求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。(9節)
今日の福音朗読を大きく分けると次のようになります。
1. 「主の祈り」(1~4節)
2. たとえ話その1(5~8節)
3. 適用(9~10節)
4. たとえ話その2(11~13節)
あるいは
1. 祈りの内容を教える(1~4節)
2. 祈りの成就を確約する(5~13節)
と、2つに大別することもできます(『主日の福音-C年』)
1~4節の「主の祈り」についてはマタイによる福音書(5章3~12節)の方で学びますので、今日のところは割愛しましょう。
主に5~8節に書かれている最初の「たとえ話」を学ぶことにします。
これは
夜遅く不意の客を迎え、差し出すパンが手もとにない人のたとえ(『主日の聖書解説<C年>』)
です。
雨宮慧神父によれば、8節の原文を直訳すると
彼は彼に与えないだろう
立ち上がって
彼の友達であるから
彼のしつこさから
起き上がって
彼は必要なものをすべて与えるだろう
という交錯配列法(コンチェントリック)になっています。
そして、この節のポイントは真ん中の
彼の友達であるから
彼のしつこさから
ということになります。
つまり
友達という理由で立ち上がらなくても、彼のしつこさに負けて立ちあがる
というわけです。
ですので、この節の中心的な言葉は
しつこさ(執拗)
です。
執拗とは
1. しつこいさま。「執拗につきまとう」
2. 自分の意見にいつまでもこだわりつづけるさま。
えこじ。がんこ。「執拗に自説を主張する」
という意味(『デジタル版大辞泉』)です。
一方、この原語は ἀναίδεια(アナイデイア)ですが、その意味は英語では
shamelessness, shameless persistence (Strong's)
となっています。
つまり、
恥も外聞もないさま
恥も外聞もなくしつこいさま
ということですね。
「なりふり構わず」と言い換えてもよいですが、頑なさやこだわりとはちょっとニュアンスが違いますね。
ですから、夜中に「パンを貸してくれ」と戸をたたいた隣人は
夜中に突然、知人が訪ねて来たのに買い置きがなかったので、恥も外聞もなく隣家に駆け込んだ
ということになります。
この点について面白いのは、雨宮慧神父が
ベッドに入って寝ている人の ἀναίδεια(アナイデイア)であれば、「ホスピタリティーを欠いた恥知らずといわれないために起きて与える」ことを現せます(『主日の聖書解説<C年>』
と指摘している点です。
確かに、旅人を篤くもてなす、という伝統は色々な民族に見られることです。
ですので、急に知人が訪ねて来て買い置きがなく困っている隣人を助けないのは「ホスピタリティーを欠いた恥知らず」
ということになるわけです。
この単元の結論として、ἀναίδεια(アナイデイア)の捉え方によってこのたとえ話は2通りに考えられる、と雨宮神父は言われます(『主日の聖書解説<C年>』)
1. 戸口に立った人のἀναίδεια(アナイデイア): 神の前に
立つ人間がとるべき姿勢を説いている。
2.寝ていた人のἀναίδεια(アナイデイア): 人間に対
する神の態度を教えている。
最後に、この議論で気を付けたいことを指摘しておきましょう。
それは、現代日本社会に生きる私たちにとっての「恥」と古代イスラエル社会での「恥」を同じように考えることは危険だということです。
そこまで行くと、新約聖書学を離れて文化人類学の領域に踏み込むことになりますので、これ以上は話を進めません。
聖書を読む際にまず肝心なことは現代日本に生きる私たちの価値判断に拠るのではなく、あくまで原文に即して、出来れば原文そのものを読んで行く姿勢でしょう。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社
『主日の福音-C年』オリエンス宗教研究所
Strong’s Concordace