そのころには、あなたのサラに男の子が生まれているでしょう(10節)

 

今日の旧約聖書朗読箇所は

 

アブラハムの前に神の一行が現れ、彼が丁重にもてなしたところ、妻のサラが男の子を産むだろうと告げた

 

という、ストーリー自体は大変に分かりやすい単元です。

 

 

ですので、ポイントをいくつか指摘しておくに留めましょう。

 

まず、1節の

 

主はマムレの樫の木のところでアブラハムに現れた

 

という書き出しです。

 

主つまり原文ではיְהוָֹה(ヤハウェ)自身が現れた、というわけです。

 

不思議なのはアブラハムの前に現れたのは三人の人(2節)であって、自ら神と名乗ったのではないのに、アブラハムは目の前に立っているのは神だ、と察知したことです。

 

3節にはアブラハムの言葉として「お客様」と呼びかけたと書かれていますが、原文では אָדוֹן(アドナイ)となっています。

 

つまり、アブラハムは「主よ!」と呼びかけたのですが、新共同訳はわざわざそれを「お客様」と意訳をしたことになります。

 

いずれにせよ、この場面で不思議なのはなぜアブラハムはこの人たちが神だと分かったのか、です。その理由は聖書の文面からは不明です。

 

また、神自身が人間の姿で現れた、というのも不思議です。

 

むしろ、出エジプト記には神のモーセへの言葉として

 

あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである(3章20節)

 

と書かれているのです。

 

次に、「どうか僕のもとを通り過ぎないでください」(3節)と「僕の近くをお通りになったのですから」(5節)に関してです。

 

日本語では区別されていませんが、原文を読むと3節では「あなたの僕」と単数になっているのに対して5節は「あなたがたの僕」となっているのです。

 

このことについて雨宮慧神父は

 

「三人の客人の訪問」と「一人の客人が告げた子供の誕生」が一つに合わされ、今の形になったとすれば、説明がつく(『主日の聖書解説<C年>』)

 

としたうえで、

 

神は「三人」として現れると同時に「一人」にもなる方と考えていたからもしれません(同上)

 

とし、更に

 

イスラエルの神は現れつつ、隠れる神だということにもなります(同上)

 

と結論づけておられます。

 

参考:

 

雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社

   『図解雑学 旧約聖書』ナツメ社