御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる(14節)
今日の旧約聖書朗読は教会歴では10~14節ですが、新共同訳聖書では、10節は1~10節の結び、11~14節は独立した段落になっています。
10節に
主に立ち帰るからである
と書かれています。
この「立ち帰る」の原語はשׁוּב(シューヴ)ですが、この言葉は1~10節の中では、訳語は様々ですが、7回も繰り返し出てきます。
ですので、この言葉が一つのキーワードであることは明らかです。
今日の朗読箇所の前になりますが、6節の
心に割礼を施し
は私たちにとっては分かりにくい表現です。
創世記には神とアブラハムの契約として次のように書かれています。
あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これがわたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる(17章10~11節)
更に続けて
いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて...生まれてから八日目に割礼を受けなければならない(同12節)
とされています。
幼子イエスが八日目に割礼を受けた、とルカによる福音書
2章21節に書かれているのも、この掟に従ったからでした。
当然、モーゼをリーダーとした民は皆、割礼を受けていたはずです。
「主はあなたとあなたの心に割礼を施し」というモーゼから人々(男子)への言葉は
確かに諸君は身体的には赤ん坊の時に割礼を受けた。しかし、心にも割礼を施されることによって「主に立ち帰る」(10節)ことが出来、主が命じる戒めを全て行うようになるのだ(8節)
というメッセージでしょう。
「主に立ち帰る」ことが繰り返され、強調されているわけですが、3~5節には「バビロン捕囚」からの帰還への希望が書かれていますので、「立ち帰る」こといはそのことも掛けられていると考えられます。
モーセは
今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない(11節)
と言いました。
何故なら
神の働きかけに促され、行うことができるようになるから(『主日の聖書解説<C年>』
なのです。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社
『図解雑学 旧約聖書』ナツメ社
今日の福音朗読箇所はルカに福音書のみならず新約聖書全体でも「放蕩息子のたとえ」(ルカによる福音書15章11~32節)とならんでイエスの話したたとえ話の中でも最も有名なものといえます。
日本では余り見ませんが、今でも欧米とくにアメリカでは、たまたま通りかかった通行人が何か困っている人を助けたなどというニュースが「善きサマリア人現る」というような見出しで報じられることがあります。
また、Samaritan HospitalとかSamaritan Health Serviceといった名前の医療機関は全米各地にあるようです。
日本では沖縄本島の南風原町に「サマリア人病院」というキリスト教系の病院があります。
今日のたとえ話も余りに有名なだけにかえって必ずしもその真意は理解されず、中途半端に覚えられているかもしれません。
今日の単元は実は次の2つの部分からなっており、有名なたとえ話は前半の律法学者とのやり取りを踏まえてイエスが話したたとえ話ということになります。
1. 律法学者とイエスのやり取り(25~29節)
2. 「善いサマリア人」のたとえ(30~37節)
まず、前半の「律法学者とイエスのやり取り」では律法学者がイエスを試そうとして質問をします(25節)。
聖書には特に「イエスを困らせようとして」とか「イエスをやり込めるために」とは書かれていませんが、律法学者には「自分は若い時から長年、律法の研究を重ねて来た。周りの連中に偉そうに講釈を垂れているが、ガリラヤの片田舎出の若造に何が分る!」という気持ちだったとしても不思議はありません。
律法学者の質問は
先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか(25節)
というものでした。
当時のユダヤ社会では明らかに目下であるイエスに学者が「先生」と呼びかけたのは尊称というよりもむしろ皮肉だったようにも思えますね。
「永遠の命を得る」というのは当時のユダヤ社会では広く行われていた議論でした。
新約聖書の他の箇所にも
金持ちの青年が「永遠の命を得るにはどんな善いことを?」とイエスに尋ねる(マタイによる福音書19章16節以下)
金持ちの青年が「何をすれば永遠の命を受け継ぐことが出来るか?」とイエス様に尋ねる(ルカによる福音書18章18節以下)
などのエピソードが記されています。
律法学者の問にたいしてイエスは
あなたはどう理解しているか(26節)
と、逆に尋ねます。
そのイエスの問に対する律法学者は
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(申命記6章5節)
隣人を愛しなさい(レビ記19:章8節)
の2つである、と答えました。
これは、答えとしては完璧、100点満点です。 そこで、イエスは
正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。
と答えましたが、
これは日本語の文では単なる命令形になっていますが、原文では「継続して最後までお続けなさい」という意味となっており、
やれるものなら最後までやってみなさいよ!あなた、普段から出来てないでしょ!
と実は言ったのです。
この立場が逆転してしまったやり取りに納得できなかった律法学者は、角度を変えてイエスに挑みます。
「隣人を愛する」のは結構だが、そもそも隣人とは何者を指すのか
というわけです。 それに対してイエスはたとえ話を用いて答えます。 そのたとえ話が30節以下のいわゆる「良いサマリヤ人のたとえ」です。
このたとえ話のストーリー自体は良く知られていますので、ここではあらすじを述べることはせず、2つの言葉を検討します。
先ず、イエスがこのたとえを話すきっかけになった「隣人」という言葉です。
律法学者はイエスに議論を吹っ掛けますが、実は彼にとっての「隣人」は自明だったはずです。それは雨宮慧神父によれば
寄留する外国人も含め、同一地域に住み、生活環境を共にする人たち(『福音書の言葉 上』)
であり、たとえ話の主人公であるサマリア人は含まれません。
サマリア人と聞いてもわたしたちにはすぐにはピンと来ませんが、 旧約聖書の列王記下には
アッシリアの王はバビロン、クト、アワ、ハマト、セファルハイムの人々を連れて来て、イスラエルの人人に代えてサマリアの住民とした。この人々がサマリアを占拠し、その町々に住むことになった(17章24節)
と書かれています。
つまり、アッシリア帝国の植民地政策によってイスラエル王国が完全に消滅させられたというわけで、ユダヤ人のサマリア人に対する感情は隣人どころではなく、蛇蝎のごとく嫌う対象であった、ということになります。
実は、ヨハネによる福音書にはユダヤ人たちがイエスのことを「サマリア人で悪霊に取りつかれている」と言っていたとも書かれています(8章48節)。それほど、イエス自身も司祭などのユダヤ社会での支配層や律法学者たちに嫌われていた、ということでしょう。
次に、33節にある「憐れに思い」という言葉です。
この言葉の原語は(スプランクニゾマイ)です。 普通に訳せば確かに「憐れに思い」ですが、雨宮神父によればニュアンスとしては
はらわたが震えるような深い憐れみ
であり、更に
行動へと人を駆り立てる深い憐れみ
ということです。
つまり、何かの事情で困っている人を見たとき、単に可哀そうと「憐れに思う」のではなく、直ちに
行動に移しなさい、ということです。
しかし、これだけでは日ごろからの心構えをイエスが説いているように読めてしまいます。
しかし、今日のたとえ話で注目したいのは強盗にみぐるみ剝がされ瀕死の状態で道端に倒れていた人を助けたのがユダヤ人から嫌われていたサマリア人だった、ということです。
彼はこの瀕死の人物をロバに乗せてユダヤ人の村に入って行ったのですが、この行動自体が彼にとっては命がけだったのです。
西部劇で、アメリカ原住民が道端に倒れていたカウボーイを自分の馬に乗せて白人の町に入って行く場面を想像して見れば、その緊迫感が多少は分かるかもしれません。
とにかく、ちょっとした同情心で出来ることではない、正に命がけの行いだったのです。
イエスは人々に救いをもたらすために自ら十字架にかかりました。
そう考えると、「善いサマリア人」とはイエス自身のことであったのかもしれません。
』