まず初めに、今日の福音朗読箇所を読み始める時に少し違和感を感じるかもしれません。
というのは、その前の20章31節には「本書の目的」という見出しと共に
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
と書かれています。
つまり、そこにはヨハネによる福音書全体の結論が書かれているのであって、21章は後から付け足したもののように読めるのです。
雨宮慧神父は特にそのことに触れておられませんが、故高橋重幸神父は
ヨハネ20・30-31に福音書全体の結論がすでにしるされているので、21章はおそらく付録として後に付け加えられたものとみなされています(『主日の聖書』)
としておられます。
さて、雨宮神父によれば今日の朗読箇所には次の4つのテーマが盛り込まれています。
1.シモン・ペトロの態度
2.弟子たちの態度
3.「食べるもの」の有無
4.「網」に起こる変化
3節にはシモン・ペトロが
わたしは漁に行く
と言った、と書かれています。
この「行く」ですが、原語の ὑπάγω(ヒュパゴー)には
go away, depart, begone, die
等の意味があります。
つまり、ペトロ「漁に行く」と言い、他の弟子たちも彼と一緒に漁に出ようとした、ということは彼らが宣教の生活から離れ、元の漁師としての日常生活に戻ろうとした、ということなのかもしれません。
しかし、彼らは岸に立っていた人物から
舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ(6節)
と声をかけられ、その通りにすると網を引き揚げられない
ほどの大漁になったというのです。
ここで一つ面白いのは、このとき獲れた魚の量について153匹という具体的な数字が書かれていることです。(11節)
この153という数字については古来、色々な解釈がなされてきました。
例えば、「当時、知られていた魚の種類が全部で153であった」というのがその代表的なものであり、そこから弟子たちの宣べ伝える福音は全地に及ぶということを象徴した数字である、というのです。
これについてはエゼキエル書47章10節に出てくるエン・エグライムという地名はゲマトリアでは153になる、そこから来ている、という説もあるようです("Interpretation John")が、果たしてどうでしょうか。
閑話休題(それはともかく)
そして、その時、彼らは自分たちに声をかけた人物こそイエスであることに気づかされたました。
大変にドラマチックな場面ではありますが、雨宮神父によれば、今日の朗読箇所で注目すべきは上記の3番目のテーマ、つまり「食べ物」です。
実際、5節の
子たちよ、何か食べるものがあるか
に始まって、9節、12節、13節に「食べる」ことが繰り返さ
れています。
この「食べるもの」の原語προσφάγιον(プロスファギオン)は「パンのおかず」、つまりここでは魚という意味です。
ですから、5節では、イエスは弟子たちに
パンはあるかもしれないが、ちゃんとおかずの魚もあるのか?
と聞いたのです。
雨宮神父によれば、
イエスの関心は最初から、弟子たちに食べる物を差し出すことにある(『主日の福音-C年』)
のでした。
しかも、この食事はシモン・ペトロを筆頭に7人の弟子たちに与えられるものでした。
ここで7というシンボリックな数字が使われていることから、7人の弟子たちは
未来の共同体・教会を表現する
ものであり、彼らに差し出される食べ物は
聖餐(聖体拝領)
を示しているということでしょう。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社
『主日の福音-C年』オリエンス宗教研究所
高橋重幸『主日の聖書』オリエンス宗教研究所
Gerard S. Sloyan "Interpretation : A Bible Commentar for Teaching and Preching John" John Knox Press