あの方6はここにはおられない。復活なさったのだ。(6節)

 

 

今日は「イースター」です。

 

イエスが埋葬されていたはずの墓が空であった様子は四福音書すべてに書かれており良く知られています。

 

今日はルカによる福音書に基づいていくつかのポイントを学びます。

 

まず、イエスと行動を共にしていた婦人たちは「週の初めの日の明け方早く準備して香料などをもってイエスの墓に行きました。ところがその墓は空だったのです。(1~3節)

 

当時、イエスの遺体を引き取ったアリマタヤのヨセフのような富裕層の墓は横穴式で、入り口が円盤型の大きな石で塞がれていました。 

 

その石が脇に転がしてあり、婦人たちが中に入ってみるとイエスの遺体はありませんでした。

 

彼女たちは動転してしまいます。

 

旧約聖書に

 

死者が再び生きることはなく、死霊が再び立ち上がることはありません(イザヤ26:14.P.1100)

人も陰府に下れば もう、上ってくることはない。再びその家に帰ることはなく住みかもまた、彼を忘れてしまう(ヨブ7:9~10.P.783)

 

などと書かれているようにユダヤ教の伝統の中では死んだ人が生き返るということは想定外だったのです。

 

創世記の有名な「イサクの奉献」(22 章)についてアブラハムは神が復活させてくれると知っていて喜んで息子イサクを生贄として捧げようとした、という趣旨の礼拝説教を聞いたことがあります。

 

しかし、創世記が書かれたBCE6世紀中期には復活の思想はまだなかったと考えられています。

 

さて、彼女たちがイエスの遺体の代わりに出会ったのは「輝く衣を着た二人の人」(4節)でした。

 

彼女たちが出会った「人」について面白いのはマタイとマルコでは1人、ルカとヨハネでは2人となっていることです。

 

2人という人数については、旧約聖書の申命記に

 

死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない。(17章7節)

いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない(19章15節)

 

などと書かれているように、彼らが話すことの確かさを証明するため、と考えられます。

 

ただ、ここで注目したいのは2人が「輝く衣」を着ていた、ということです。

 

数週間前に「イエスの変容」(ルカ9章28節以下)について学びました。

 

弟子たちと共に山に登ったイエスの服が真っ白に輝き、モーセとエリヤが現れました。 このモーセとエリヤも「栄光に包まれて」いたのです。

 

今日の箇所での「輝く衣を着た2人」が誰であるかは福音書には書かれていません。

 

普通に考えれば天使たちということになるでしょうが、この「イエスの変容」から類推すると、もしかしてモーセとエリヤだったのかもしれない、と想像を巡らせることもできます。

 

彼らが話し合っていた「イエスがエルサレムで遂げようとしている最期」(9章31節)が正に現実のものとなったのでした。

 

この2人は婦人たちに「思い出しなさい」(7節)と告げます。

 

その思い出すべきこととは、イエスがガリラヤで弟子たちに

 

人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている(9章22節)

この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている(9章44節)

 

と告げたことでした。

 

イエスの墓が空であったことにすっかり動転してしまった婦人たちですが、気を取り直して弟子たちのところに行き、「一部始終を」告げます。

 

その「一部始終」には「ガリラヤにいたころにイエスが語ったことを思い出しなさい」と告げられたことも含まれていたはずです。

 

しかし、弟子たちは容易に彼女たちの言葉を信じませんでした。わずかに兄弟子格のペトロが墓の様子を見に行っただけでした。

 

彼らがイエスの復活を信じるようになるにはまだ時間が掛かったのです。

 

参考:

 

雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社

    『主日の福音-C年』オリエンス宗教研究所