父よ、わたしの霊を御手にゆだねます(46節)

 

今日は教会歴の上で「受難の主日」です。

 

今日の福音朗読箇所は4福音書すべてが描写している十字架にかけられたイエスの最期の場面です。

 

非常に有名な場面ですので、ストーリーを追うことはせず、いくつかの言葉を重点的に見ていくことにいたしましょう。

 

まず注目するのは

 

全地は暗くなり(44節)

太陽は光を失っていた(45節)

 

という言葉です。

 

正午過ぎなのに地上全体が暗闇に包まれたのです。

 

旧約聖書アモス書には、

 

その日が来ると、主なる神は言われる。

わたしは真昼に太陽を沈ませ

白昼に台地を闇とする(8章9節)

 

と、今日の福音朗読とそっくりの場面が描かれています。

 

さらに、そのほかにも

 

三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ(出エジプト記10章22節)

太陽は日盛りに沈み(エレミヤ書15章9節)

 

などと書かれています。

 

これらのことが起こるのはまさに「終わりの日」なのです。

 

その日は近い。主の日は近い。それは密雲の日、諸国民の裁きの時である(エゼキエル書30章3節)

 

「終わりの日」には日中であるにも関わらず、全地が突然、全地が暗闇に包まれます。。

 

福音書記者たちはイエスの最期の日が「終わりの日」であることを旧約聖書を用いて表現したということでしょう。

 

次に

 

神殿の幕が真ん中から割けた(45節)

 

ということについてです。

 

この「神殿の幕」というのは、エルサレム神殿の一番奥に位置する「至聖所」の入り口にかけられた幕を指しています。

 

列王記上8章に書かれているように「至聖所」には「神の箱」が安置されていました。

 

そして、そこに入ることが許されたのは祭司のトップである大祭司のみで、しかも年に一度、「贖罪日」だけでした。(レビ記16章)

 

その最も神聖な「至聖所」の入り口を覆う幕が真ん中から割けたということは、モーセの律法の時代が終わり新しい時代が始まるということの象徴的な出来事だったのです。

 

イエスの死によって、大祭司が年に一度だけ神と直接に交わる場所に一般の人間がアクセスできるようになったわけです。

 

彼の死は決してこの世の終わりではなく新しい時代の始まりであったということです。

 

 

ルカが記すイエスのいまわの言葉

 

父よ、わたしの霊を御手に委ねます(46節)

 

は、詩編の

 

まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます(31編6節)

 

という言葉そのままです。

 

詩編31編には冒頭の

 

主よ、御もとに身を寄せます(2節)

 

を初め、ダビデが主に呼びかける言葉が頻繁に出てきます。

 

イエスの最期の言葉としては、マタイが記録している

 

わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(27章46節)

 

も有名です。

 

この言葉は詩編22編冒頭の言葉そのものです。

 

それだけ読むと、イエスは父なる神から見捨てられたことを嘆き悲しんでいるように思われます。

 

しかし詩編22編の最後には

 

わたしの魂は必ず命を得(30節)

 

と詠われています。

 

イエスは神を讃美し、神にすべてを委ねて息を引き取ったのでした。

 

その様子を見ていたローマの百人隊長の

 

本当に、この人は正しい人だった(47節)

 

という言葉も印象的です。

 

 

参考:

 

雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社

    『主日の福音-C年』オリエンス宗教研究所

    『図解雑学 旧約聖書』ナツメ社

前島誠『ナザレ派のイエス』春秋社