主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない(7節)
これまで何度も触れているようにイザヤ書は大きく次の3つに分けることができます。
第一イザヤ: 1~39章
第二イザヤ: 40~55章
第三イザヤ: 56~66章
第二イザヤには「主の僕の歌」が4つありますが、今日の朗読箇所はその3番目にあたります(『主日の聖書解説<C年>』)
4節の冒頭には
主の僕の忍耐
という小見出しがつけられています。
4節から9節の間に「わたし」が度々、出てきますが、これは「主の僕」としての第二イザヤ自身を指しているものと思われます。
神は
彼に弟子としての舌を与え(4節)
彼の耳を開かれた(5節)
のです。
それは「疲れた人」(4節)を励ますためでした。
この「疲れた人」とはバビロンに捕囚の身となっているイスラエルの民をさしていることは明らかです。
第二イザヤは
背中を打とうとする者、ひげを抜こうとする者(6節)
に襲われ、迫害を受けました。
「背中を打つ」とか「ひげを抜く」とかいうのは虐待の表現として余りピンときませんが、これらは肉体的な苦痛というよりも精神的な屈辱感を表しているのかもしれません。
第二イザヤはペルシャ帝国のキュロス王によってバビロンが滅び、イスラエルの民が解放されると預言していました(44章24節~45章1節)。
ですので、彼を襲ったのはバビロン人と考えられます。もしかするとバビロン人に加担するイスラエル人もいたかもしれません。
しかし、彼はそのような迫害をものともしませんでした。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた
という一節から分かるように、、彼は逃げ隠れせず堂々と神から与えられた「疲れた人を励ます言葉」を語り続けたのです。
なぜ彼にそのような忍耐の力があったのでしょうか。
それは
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし(4節)
という一節からうかがいしることができます。
いくら忍耐といっても限度を感じることもあったでしょうし、朝起きてもなんとなく気が晴れないということもしょっちゅうあったでしょう。
しかし、彼は朝ごとに神が与える言葉に励まされたということです。
今日の聖書箇所では「主なる神」という言葉が4節、5節、7節の冒頭に出てきます。
youtubeなどで原文の朗読を聞くと
アドナイ、エロヒーム
と荘重に繰り返され、それを聞いただけで思わず身の引き締まる思いがします。
この言葉を実際に聞いたイスラエルの人々には大きな励ましになったことでしょう。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社
『図解雑学 旧約聖書』ナツメ社