わたしもあなたを罪に定めない(11節)

 

今日の福音朗読箇所も大変に有名なストーリーです。

 

聖書のページを開いてすぐにこのストーリー全体が【 】で括られていることに気づきます。

 

雨宮慧神父は

 

使われる語彙の多くが非ヨハネ的であることから、最初からヨハネによる福音書に含まれてはいなかったと考えられる。伝承自体は2世紀には成立していた可能性がある(『主日の聖書解説<C年>』

 

としておられます。

 

「非ヨハネ的語彙」の例としてGerard Sloyanは

 

オリーブ山(8章1節)

律法学者やファリサイ派の人々(3節)

 

といった表現を挙げています。

 

このストーリーの伏線となっているのは、この出来事の前日、イエスが神殿の境内で説教をしている際の

 

わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる(7章38節)

 

という発言でしょう。

 

イエスが自身を神に準えていることに怒った祭司長たちやファリサイ派が彼の逮捕を命じますが、失敗します。

 

そこで、彼らは朝、神殿の境内で説教をしているイエスのところに若い女を連れて来て

 

この女は姦通の罪を犯した。律法には石打の刑に処するべきと定められているが、どう思うか

 

と、問い詰めます。

 

旧約聖書の申命記22章22節以下には「姦通」についての掟が細かく書かれています。

 

この掟には当事者である男女に対する処罰が書かれています。

 

しかし、今日のストーリーで不思議なのは、姦通の片割れであるはずの男については一切、触れられていないことです。

 

雨宮神父はこのストーリーの背景として、旧約聖書の民数記に書かれている

 

「祭司アロンの孫で、エルアザルの子であるピネハス」という人物が、イスラエル人と彼が連れて来たミディアン人の女を槍で突き、イスラエルを襲った災害が収まった(25章6~15節)

 

というエピソードを挙げておられます。

 

このエピソードについて雨宮神父は

 

このピネハスの行動は神のおきてに忠実な信仰者の模範とみなされ、イエスの時代のユダヤ教も彼を偉人として称賛していた(『主日の福音-C年』

 

とされています。

 

ただ、このピネハスのストーリーではイスラエル人の男とミディアン人の女の二人が殺されています。

 

ですので、そのストーリーが背景にあるにしても、今日の聖書箇所に姦通の片割れである男が登場しない理由は分かりません。

 

さて、「律法学者やファリサイ派」がイエスに吹っ掛けた議論は

 

律法では姦通を犯した女は死刑と定められているが、お前はどう思うか

 

というものでした。

 

それに対するイエスの答えとして

 

1.「死刑にすべきではない」と応えれば律法違反と見做される。

2. 「死刑にすべき」と応えれば日ごろ愛を説いているくせにと言われる。

 

ということで、いずれにせよ出口なしのジレンマ状態です。

 

それに対して、イエスは彼らに背を向けて無視し続けますが、余りにしつこいので、ついに

 

あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい(7節)

 

という有名な言葉を発します。

 

考えてみると、このイエスの答えは完全な肩透かしで問に対する答えにはなっていませんね。

 

前島誠氏はこの場面について

 

意味のない問いに意味のない応答を返す。そこが見事だ(『ナザレ派のイエス』)

 

としておられます。
 

雨宮神父はこのストーリーに関わるいくつかの可能性の一つとして旧約聖書続編の「ダニエル書補遺」に言及しておられます。

 

それは

 

イエスが律法学者やファリサイ派の論難を無視し腰をかがめて地面に何かを書き続けていた(6節、8節)

 

のでした。

 

その内容ですが、それは「ダニエル書補遺」のスザンナという女性が姦通の冤罪を被ったというエピソードを背景に

 

悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない(出エジプト記23章1節)

偽りの発言を避けなければならない。罪なき人、正しい人を殺してはならない(同7節)

 

と書いていた、という仮説です。

 

イエスの言葉を聞いて

 

年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスと女の二人が残った(9節)

 

のでした。

 

彼らが立ち去って行ったのは、自分の行動を恥じて悔い改めたためというより冤罪がばれそうになってこそこそといなくなった、という解釈も不可能ではないですね。

 

イエスは女に

 

あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。(10節)

 

と質したうえで、

 

わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。(11節)

 

と告げます。

 

これは

 

罪の赦しと励ましの言葉(『主日の聖書解説<C年>』教友社

 

でした。

 

ただ今日のストーリーはここで終わります。

 

イエスの言葉を聞いた女がその後どのような行動をしたのか、どのような人生を送ったのかについては読者のイマジネーションに任せるということなのでしょうか。

 

参考:

 

雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社

    『主日の福音-C年』オリエンス宗教研究所

前島誠『ナザレ派のイエス』春秋社

Kenneth E. Bailey "Jesus Through Middle Eastern Eyes 

        - Cultural Studies Inn The Gospels" 2008 Illinois

Gerard Sloyan "Interpretation John"1988 Atlanta