ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、こやしをやってみます。(8節)
今日の福音朗読箇所は大きく2つに分かれています。
雨宮慧神父によれば
1~5節: 実際の事件を引き合いに出して語られた教え
6~9節: 三年も実を結ばないいちじくの木のたとえ
(『主日の福音-C年』)
の2つということになります。
1つ目では
ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた(1節)
18人がシロアムの塔の崩落で死んだ(4節)
という2つの事件が引き合いに出されています。
ガリラヤ人の血といけにえの血を混ぜた、と聞くと何かおどろおどろしい場面を想像してしまいますが、雨宮神父によれば
ガリラヤ人が過越祭りでエルサレムに登った際にピラトによるガリラヤ人の殺害事件が起こった。要するに生贄の血を流す祭儀と流血事件が重なった(『主日の福音-C年』)
といのことです。
上に挙げた2つは歴史上、実際に起こった事件のようですが、それはともかくとして、ここで注目したいのは3節と5節で
決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
と、同じ言葉が繰り返されていることです。
2つの事件で犠牲になった人々についてファリサイ派などは
彼らは過去に罪を犯したから裁きを受けて当然
と考えていました。
これは逆に言えば、
過去に罪を犯してさえいなければ災難を逃れることができる
ということになります。
それに対してイエスは
罪とは...どの人間のうちにも根強くはびこる現実である...神の愛を信じきれない不信仰のことである(『主日の福音-C年』)
と、それを強調するために3節と5節で同じ言葉を繰り返したのでした。
ただ、ここで小欄としては
不信仰を悔い改めさえすれば今後降りかかってくりであろう様々な災難から逃れられるのか?
ということを思ってしまいます。
これは
神が全知全能ならば何故この世に悪があるのか? なぜ戦争や災害で犠牲者が出るのか?
という議論にもなって来ますので、今朝のところは深く立ち入らないことにいたします。
さて、今日の単元の後半で語られるたとえ話については、当時のイスラエルで似た民話が流布していたとのことですが、ここでのポイントは8~9節の園丁の言葉です。
ブドウ園内のイチジクの木が三年経っても一向に実を結ばないことに業を煮やした農園主が「もう切り倒してしまえ」と命じたのに対して園丁が「もう一年、待ってみてください」と答えます。
このたとえ話の中心は、この園丁の言葉が表す「忍耐」ということになります。
なかなか実を結ぶことがないイチジクの木は、なかなか悔い改めることをしない人間です。
神は人間が悔い改めることを忍耐深く待っている
ということでしょう。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社
『主日の福音-C年』オリエンス宗教研究所