これこそ、とこしえにわたしの名。
これこそ、世々にわたしの呼び名。(15節)
エジプトで殺人を犯し、ファラオの官憲の手を逃れるためにシナイ半島のメディアンに亡命していたモーセ(出エジプト記2章11以下)は、ある時、荒れ野の中で羊を追ううちに「神の山ホレブ」に至りました。
このホレブ山については、モーセと彼をリーダーとするへブル人の出エジプト後の経路と同様、いくつかの説がありますが、ここでは通説に従って、シナイ山ということにしておきましょう。
そのホレブでモーセは燃え尽きない柴の間から聞こえる神の声を耳にします。
神はモーセに
わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ(3章10節)
と告げます。
はじめは躊躇したモーセですが、結局はエジプトに戻る決心をし、神に
イスラエルの民のところに戻った時に、彼らは私を遣わした神の名はなんというのか、と聞くでしょう。何と答えればよいですか(13節)
と尋ねます。
これは当然の問いというべきでしょう。
当時エジプトに住んでいたへブル人の周りにはたくさんのエジプトの神々が祭られていたでしょうし、また彼ら自身の間でも部族ごとに違った神を信仰していた可能性があるからです。
このモーセの問に対する神の答えが今日のテーマです。
神は
わたしはある。わたしはあるという者だ(14節)
というものでした。
これにはモーセも大いに困ったに違いありません。
どう考えても彼の質問に対する答えになっていません。また、その意味もよく分からなかったに違いないからです。
いま聖書を読んでいる私たちにも確かによく分かりませんね。
さらに話がややこしくなるのは原文を読んだ時です。
ヘブライ語の原文をカタカナで表記すると
エヒイェー・アシェル・エヒイェー
と、なります。
ここでエヒイェーは「わたしはある(またはいる)」という意味です。
また、アシェルは英文法用語でいえば関係代名詞ですので、直訳すると
わたしは、わたしがあるところのものである。
という、日本語としてなんともこなれていない文になってしまいます。
英語の聖書には様々な版がありますが、有名なKing James Version以来ほとんどすべての版で、この神の言葉は
I AM THAT I AM
と訳されています。
ところが更にわたしたちにとって厄介なことがあります。
それは、聖書ヘブライ語には、学生時代に英語の授業で習ったような「過去・現在・未来」のいわゆる時制はありません。
その代わりに動詞の「完了形」または「未完了形」が使われており、文脈から判断して現代の「過去・現在・未来」に訳さざるをえないのです。
先に挙げた
エヒイェー・アシェル・エヒイェー
のエヒイェーはいずれも未完了形が使われています。
つまり、「まだ完了していない」事柄ですので、「これから将来に起こるであろう(起こるかもしれない)」ということが表されているのです。
ですので、、
エヒイェー・アシェル・エヒイェー
を英語では
I WILL BE THAT I WILL BE
あえて、日本語訳すると
わたしは、あるであろうところのものであるだろう。
と訳すこともできるのです。
これでは、ますますこんがらがってしまいますね。
これについて雨宮慧神父は
「私は常になろうとする者になることができるのであり、何になるかは私が決めることであって、人間が関与できることではない。私はどこでも、誰に対してもなるもの、つまり生きて働くものだ」という意味だと思われます(『主日の聖書解説<C年>』9
と、まとめておられます。
また、前島誠氏は
仮にもこの句は、神の自己紹介なのだ。文字通り受け取るのが妥当ではないのか。「あるだろう」と言うのだから「将来あるだろう」、「いつかは姿を現すだろう」ととるべきではないか。(
としておられます。
ただ、前島氏はその後に
だとすれば、神は存在しないことになる。神の名は「今はまだいない者」ーまさしく不在の神であった
と続けておられます。
ただ、これについては、
神はモーセに...言われ(14節)
とあり、神がモーセに直接、語りかけたと書かれていますので、その神が「不在であった」とはどういう意味なのか、考えさせえられます。
故有賀哲太郎博士は、この出エジプト記3章14節を基にギリシャ哲学を源流とする存在論(オントロギア)に対してヘブライを源流とする存在論(ハヤトロギア)に関する考察を深められました。
それをまとめたのが博士の「キリスト教思想における存在論の問題」(創文社)です。
大変興味深い論文集ですので、本ブログでもいずれじっくり取り上げたいと考えている次第です。
最後に、もう一点。
今日の短い単元から、のちにモーセが神から授けられる十戒のうちの
あたの神、主の名をみだりに唱えてはならない(出エジプト記20章7節)
という戒めが想起されます。
グリム童話の「ルンペルシュティルツヒェン」や西遊記の「金角・銀閣」のエピソードなどもあるように、洋の東西を問わず「名を呼ぶ」「名を呼ばれる」ことの持つ意味の重大さについては昔から言われて来ていることは良く知られています。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社
『図解雑学 旧約聖書』ナツメ社
前島誠『不在の神は<風>の中に』春秋社
手島佑郎『混迷を超えるプロジェクト 出エジプト記』ぎょうせい
有賀鐵太郎『キリスト教思想における存在論の問題』創文社(CLAP復刻版)