これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け(35節)
聖書に限ったことではもちろんありませんが、文章を読む場合には前後関係いわゆる文脈を絶えず意識することはとても大事です。
それを怠って文章の中のセンテンスや言葉を本来の意味から離れて自分の都合に合わせて使ってしまうことは良くあります。
敬虔なクリスチャンは皆さん、日ごろから大切に思っている聖書の言葉いわゆる「愛唱聖句」をお持ちだと思いますが、その聖句1センテンスだけではなく文脈を考えてみる必要があるでしょう。
今日の箇所はイエスによる受難と死そして復活の予告(9章21~27節及び44節)に挟まれています。
雨宮神父が言われているように
この受難予告が弟子の間に少なからぬ不安と混乱をもたらしたことは想像に難くない(『主日の福音-C年』)
ことです。
そのため
受難予告を聞き動揺する弟子たちがイエスへの信仰を保ち続けられるとすれば、神の国の栄光を垣間見た時であろう(同上)
というのが今日の朗読箇所の枠組みということになります。
それを踏まえたうえで、いくつかのポイントを見ていきましょう。
今日の単元の冒頭には
この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた(28節)
と書かれています。
まず、このストーリーはマルコとマタイにも書かれているのですが、不思議なことにルカでは「八日ほどたったとき」となっているのに対してマタイ、マルコでは「六日の後」となっています。
たった2日の差ですので、それほど拘らなくてもよいではないか、と言われてしまいそうです。
ですが、本ブログでも度々繰り返していますように、聖書を読む際、数字が出てきたときには一応その意味を考える必要があります。
ただし残念ながら今日の箇所では何故、ルカがわざわざ言い換えているのかははっきりしません。
続いて
祈っているうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた(29節)
とあります。
このイエスの「変容」についてマタイとマルコは
μεταμορφόω(メタモルフォー)
という言葉を使っています。
それに対してルカでは
ἕτερος(ヘテロス)
という言葉が用いられています。
この2つの言葉の違いについて雨宮慧神父は
<メタモルフォー>はギリシャ神話では神々の変身に使われる言葉であり、イエスの変容に用いるのは不適当。イエスの服の輝きは、外的な変身ではなく、神の子としての内面の輝きが現れた結果
と、解説しておられます。
そして、いわば旧約聖書を代表する二人の人物、モーセとエリヤが現れて
イエスがエルサレムで遂げようとしている最期について話していた31節)
と、書かれています。
ここで問題なのは「最期」という言葉です。
「最期」という言葉は私たちの日常の中では「人生の終わり」あるいは「死に際」を指します。
ですので「エルサレムで遂げようとしている最期」ですと、普通に読めば「エルサレムでのイエスの死に際」ということになります。
しかし、ルカがここで想定しているのはエルサレム入城から逮捕と受難、十字架上での死そして復活まで、と考えるべきでしょう。
実は、この「最期」の原語はἔξοδος(エクソドス)です。
エクソドスには出ていくこと、脱出そして死などの意味もあります。
旧約聖書の「出エジプト記」は英語ではExodusです。
また、作家レオン・ユリスがユダヤ人のパレスチナ帰還とイスラエル共和国建設の模様を著し、のちに映画にもなった小説のタイトルはExodusそして映画の邦題は「栄光への脱出」でした。
小説そして映画の中で、Exodusはホロコーストを生き延びパレスチナに向かう移民船の名前です。
閑話休題(それはさておき)
モーセとエリヤがイエスから離れようとするのを見たペトロはおそらく慌てて
仮小屋を三つ建てましょう(33節)
とイエスに進言します。
如何にも先走りなペトロの言葉です。
それに対するイエスの返答は聖書には記されていませんが、もしかすると「また始まった」と他の弟子たちと一緒に苦笑いしていたかもしれません。
35節には
すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた
と書かれています。
これはイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた際
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた(ルカ3章22節)
という一節がすぐに思い浮かびますし、さらに旧約聖書の
あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない(申命記18章15節)
という一節にまで遡ります。
白く輝くイエスそして彼と話すモーセやエリヤの姿を見てもペトロを弟子たちはイエスが予告した受難の意味を理解できたわけではありませんでした。
彼らにとっては「聞き従う」ことが必要なのでした。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社
『主日の福音-C年』オリエンス宗教研究所