話を聞かないうちは、人を褒めてはいけない。言葉こそ人を判断する試金石であるからだ。(7節)

 

今日の旧約聖書朗読はいわゆる「旧約聖書続編」のシラ書(集会の書からです。

 

以前にも触れましたように「旧約聖書続編」は旧約聖書のマラキ書に続くもので、日本聖書協会の新共同訳や聖書協会訳聖書でも含まれている版と含まれていない版があります。

 

というのも、カトリック教会では「続編」も読まれるのに対し、プロテスタント教会では読まれないからです。

 

シラ書(集会の書)はBCE190~170年の間にエルサレムで書かれたものとされています。

 

それが書かれた目的は

 

世俗的なヘレニズム文化に染まりつつあったイスラエルの人々を、真のイスラエル宗教に引き戻そうとした(『図説雑学 旧約聖書』)

 

ものでした。

 

その内容としては大きく分けて

 

1~43章  主に道徳的教訓

44~50章24節 ユダヤ人の先祖たちにt買いする讃歌

50章25節~51章 神賛美と知恵探求の勧め

 

となっています(『図説雑学 旧約聖書』)

 

今日の朗読箇所には3つの例えが書かれています。

 

ふるいを揺さぶると滓が残るように、

人間も話をすると欠点が現れてくるものだ。(4節)

 

陶工の器が、かまどの火で吟味されるように、

人間は論議によって試される。(5節)

 

樹木の手入れは、実を見れば明らかなように、

心の思いは話を聞けば分かる。(6節)

 

これらはいずれも一読すれば意味が分かる極めてありきたりな言葉にすぎず、改めて解説するまでもありません。

 

もっと言ってしまえば、別にわざわざ聖書で読まなくても、と思ってしまいますね。

 

雨宮神父は

 

主題そのものは陳腐とも思えますが、比喩の巧みさが、その陳腐さを救い、聞く者の耳を開かせます(『主日の聖書解説<C年>』)

 

と言っておられますが、どうでしょうか。

 

少し「贔屓の引き倒し」かもしれません。これらの比喩が巧みと言えるほどのものとも思えません。

 

ただ、確かに現代の我々から見れば陳腐であったとしても、自分たちの価値観ではかるのではなく、紀元前2世紀にエルサレムの民に宛てられたものという点に留意する必要があります。

 

上に書きましたように、紀元前2世紀のエルサレムにはヘレニズム文化が浸透していました。

 

ヘレニズムとは文字通りには「ギリシャ風」ということですが、単に

アレキサンダー大王時代以降に人々がギリシャ風のライフスタイルを持っていたということに留まりません。

 

思想的にはギリシャの哲学や神話に加えオリエント世界の様々な宗教も混然一体となっていたと考えられます。

 

このヘレニズムという言葉の反対語となっているのがいわゆるヘブライズムなのです。

 

要するに、本来のヘブライズムから離れ、ヘレニズム的な生活を送っていた、つまりユダヤの伝統を離れ「ギリシャ風」にかぶれていたエルサレムの人々に対して宛てられたのがシラ書だということです。

 

紀元前2世紀というと、本ブログでもいずれ本格的に取り組みたいと考えているダニエル書も紀元前2世紀頃に書かれたと考えられていますので、興味深い時代です。

 

最初に書きましたようにシラ書を含む「旧約聖書続編」は「外典」としてプロテスタント教会では読まれません。

 

もちろん主日礼拝の説教で取り上げることは出来ないでしょうが、青年会などの各部会や平日の聖書研究会などで「箴言」と並行して読んでみても良いのではないかと思います。

 

参考:

 

雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社

     『図説雑学 旧約聖書』