悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない(43節)
今日の聖書箇所は雨宮慧神父によれば
39節
40節
41~42節
43~45節
の4つに分けられます。
実はルカではごく短い単元の中に4つの例え話が詰め込まれている形ですが、マタイでは同じ例え話が異なった箇所に書かれています。
これはいわゆるQ資料というものから取られて編集されたものと考えられているのです。
Q資料とは
マタイ・ルカ両福音書記者が各々の福音書を執筆するに際して、マルコ福音書と並んで最重要資料として使用したとされる仮説上の文書(『岩波 キリスト教辞典』)
を指し、内容としてはイエスの語録集と考えられています。
この『岩波キリスト教辞典』の解説にもあるように、あくまで「そういうものがあったのだろう」あるいは「そういうものを想定した方が説明がしやすい」という仮定上の話です。
Q資料の「原本」なるものは発見されていませんし、これからも発見されないだろうと思われます。
というのは、以下は小欄のあくまで勝手な想像です。
当時、読み書きができる人は限られていたことから、この「イエスの語録集」は書かれたものではなく、口伝えにされたものではないか、と思われるのです。
しかも新約聖書が書かれているギリシャ語ではなく、アラム語またはヘブライ語で言い伝えられたのではないか、と思うのです。
今さらながらですが、イエス自身は釈迦と同じように自分では一切、書いたものを遺していません。彼の言動はあくまで弟子たちによって記憶されたものだったはずです。
閑話休題(それはさておき)
今日の単元にはイエスの色々な譬えが出て来ます。
ただ、それらを差し置いて誤解を招きそうな一節について学ぶことにいたします。
それは
だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる(40節)
という一節です。
これを素直に読んで
やはり良いクリスチャンになるには修行が必要なのか?
とか
一生懸命修行すれば師(=イエス)になれるのだ!
とか思ってしまう人がいても不思議ではありません。
そういうことがあったとしても、それは勘違いする人が悪いのではなく、この口語訳・新共同訳の訳が適切ではないと思われるからです。
ここで「十分に修行を積めば」と訳されている言葉のギリシャ語はκαταρτιζω(カタルティゾー)という動詞です。
このκαταρτιζω(カタルティゾー)という言葉には
(再び)正常の状態にする、正しい道に立ち帰らされる、完全にする、用意する、手入れをする、創造する、補う
など、色々な意味がありますが、これを「修行する」と訳すのはかなり思い切った意訳です。
しかも、原文では動詞の完了受動分詞形が使われています。
この場合、受動態の「行為の主体「、英語でいえば「受動態+by~」の「~」にあたる部分に来るべき言葉は神です。
つまり、
あなたは神によって完全な者とされる
神があなたを完全にする(『主日の聖書解説<C年>』)
ということになるわけです。
それを「修行を積めば」と能動態に訳しているのですから、二重に意訳をしていることになります。
これはもっとはっきり言ってしまえば、意図的かどうかは別として誤訳です。
この言葉を英語版の聖書では、例えばRevised Standard Versionは
when he is fully taught
と訳しています。
日本語聖書でも文語訳聖書では
凡そ全うせられた者
となっていました。
いわゆる「福音派」の教会で主に用いられている新改訳(70年版)でも
十分訓練を受けた者
となっていました。
実は2018年12月に刊行された聖書協会共同訳では
十分に訓練を受ければ
と直されているのです。
キリスト教会では聖書を良く読むこと、日頃から聖書に親しむことを奨励しています。
しかし今日の箇所は普通に読めば「修行が必要だ」「修行すれば師のようになれる」となってしまう、いわば信仰生活の根幹に関わるような一節です。
日ごろ熱心に聖書を読んでいる信徒さんたちにとっては「躓きの石」になりかねません。
一般の信徒さんたちにギリシャ語の原文はもちろん、英語訳や日本語の他の版を比較検討せよ、というのは無理があります。
それこそ、神父や牧師など説教者が本来なすべき仕事です。
教団内での委員会や外郭団体の理事会の仕事をやたらと引き受けてむやみに忙しがっている「聖職者」を良く見かけます。
しかし、それは正に本末転倒、「そんな時間があるんだったらちゃんとヘブライ語とギリシャ語の聖書を読めよ」と言ってやりたくなります。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社
『主日の福音-C年)』オリエンス宗教研究所
『主日福音のキーワード 小石のひびき C年』女子パウロ会
荒井献他監訳『ギリシャ語新約聖書釈義辞典II』教文館
大貫隆他編『岩波 キリスト教辞典』岩波書店