あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。(38節)
今日の福音書朗読箇所からは
汝の敵を愛せよ
という言葉が非常に良く知られています。
27~38節の全体は雨宮神父によれば
31節と36節を2本の柱として組み立てられています(『主日の聖書解説<C年>』
31節の
人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい
という言葉はよく「黄金律」として呼ばれています。
そして、その具体的な徳目として
敵を愛し、自分を憎む者に親切にせよ(27節)
悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈れ(28節)
に続いて、有名な
頬を打つ者には、もう一方の頬を向けよ(29節)
などの言葉が続きます。
ただ、ここで気が付くのは、確かにこれらを実行するのは大変に難しことではありますが、別にキリスト教だけのことではないでしょう。
小欄は仏教やイスラム教などを専門的に学んだことがありませんが、恐らくそれらの宗教にも似たような徳目があるだろうことは想像できます。
更に言ってしまえば、全く宗教色をなくしても一般的な道徳倫理としても十分にあり得ますね。
しかし、36節の
あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい
という言葉は一般社会で幅広く通用する徳目というわけには行きません。
聖書に日ごろ親しんでいる人ならば「父が憐み深い」という言葉から「放蕩息子の譬え」を思い起こすはずです。
実は「放蕩息子の譬え」として知られているエピソード(ルカ15章11~32節)の本当の主人公は「放蕩息子」ではなく、放蕩の限りを尽くしたあと尾羽打ち枯らして実家に戻ってきた息子を無条件で迎えた父親なのです。
「放蕩息子」の父の深い憐みの心を知る時、人は真に敵をも赦すことが出来るようになる、ということでしょう。
言いかえれば、父なる神の御心を知り、それを信ずる時、人は初めて敵をも赦し愛すことが出来るようになるのです。
これは余談ですが、それならばキリスト教の信仰がある人たちは皆、「敵」を許しているかというと残念ながらそうではありません。
信徒たち同士、牧師・神父と信徒さらには牧師・神父同士が教会や教団の中でいがみ合い、ついには分裂に至るケースはいくらでもあるのです。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社
『主日の福音-C年』オリエンス宗教研究所