主日の聖書 新約聖書 ヨハネによる福音書2章1~11節  | 生き続けることば

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三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた(1節)

 

今日の福音朗読は新約聖書の中でも良く知られている『カナでの婚礼』です。

 

1節の冒頭に

 

三日目

 

とあります。

 

これについて、前島誠氏は

 

三日目(火曜日)に婚礼を行うのは実はユダヤ法規に抵触している。意図的に破ったとすれば、それはガリラヤ庶民の好みだったのだろう。わざと法規に逆らうのを誇りにしていた連中がいたのだ

(『ナザレ派のイエス』)

 

と解説しておられます。 

 

小欄にはこの前島氏の解説の当否を確かめることは出来ませんが、わざわざ「三日目」としていることには何かしら福音書記者ヨハネの意図があるだろうとは考えられます。

 

一般的に、聖書が数字を明記している場合はその意味を考える必要があります。

 

この『カナでの婚礼』で特に目を引くのは母マリアとイエスとのやり取りです。

 

宴の途中でワインがなくなったため、母マリアは弟子たちと共に婚礼に出席していたイエスのところにやって来て、「ワインがなくなった」と言いました。

 

この婚礼が誰と誰のものであるかなどは一切、書かれていませんが、花婿もしくは花嫁あるいはその両方が恐らくマリアと近く、彼女は宴会の台所を与るような立場だったのでしょう。

 

このやり取りの場面はかなり緊張をはらんでいるともいえます。

 

その当時、長子は父親に就いて仕事を覚えそれを継ぐのが当然でしたが、イエスは弟子たちを引き連れて各地を放浪しているような人間でした。

 

しかも、そのイエスは弟子たちと共に宴席に座り込んで飲み食いをしています。

 

マリアが母の立場として怒るのも当然ですね。

 

これに対するイエスの答えもまた「人を食ったような」ものでした。

 

このような状況を前島誠氏は

 

マリア「何やってるの!あんたたちのせいでお酒がなくなちゃったじゃないの

イエス「関係ないだろーおれの出る幕じゃねえよ」

 

というやり取りだった、として描写しています。(同上)

 

確かに現代の私たちにはこのようなやり取りのほうがピンと来るのは事実です。

 

このやり取りの後、マリアは祝宴のために働いている人たちに

 

この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください(5節)

 

と言います。

 

マリアとしてはイエスに言いたいことを言ったし、いざとなればイエスがなんとかしてくれるだろう、ぐらいの気持ちだったのでしょうか。

 

いずれにせよ、このやり取りについて今日はこれ以上、論じることはしません。

 

小欄はこの緊迫したやり取りが実は後の19章26~27節に描かれている場面の伏線になっているのではないか、といささか想像をたくましくしています。

 

とこの箇所では「水がワインに変わった奇跡」に重点があると考えられるからです。

 

その「奇跡物語」の順を追っていきましょう。

 

まず、

 

ユダヤ人が清めに用いる水がめが六つ置かれていた。(6節)

 

という節についてみましょう。

 

「ユダヤ人が清めに用いる水がめ」とは、これでは何のことか私たちには良く分かりませんが、市場から戻った時や食事の前には手を洗う、というのはユダヤ社会の習慣でした。

 

イエスの弟子たちが手を洗わずに食卓についたのを目撃したファリサイ派や律法学者がイエスに論争を挑んだ

 

というエピソード(マタイによる福音書15章1節以下)が思い出されます。

 

また、「六つ」とことさら数字を挙げていることについて「完全数七に一つ足りない」ということを読み込みたくなります。

 

先ほども書きましたように確かに聖書で数字が明記されている場合、そこに何かしらの意味があると考えるべきですが、今日の箇所についてヨハネがどこまで意識していたかは、少なくとも聖書の文面からは確認できません。

 

かめの縁まで満たされた水はワインしかも上等のものに変えられました。

 

ここで注目したいのは、ここでイエスはみずがめの上に手をかざした、とか、大きな声で「水よ、ワインに変われ!」と叫んだ、などとは書かれていないことです。

 

つまり、イエスが何かしら奇跡を起こす行為を行ったとは書かれていないわけです。

 

イエスはそこにいただけでした。

 

にも拘わらず、水は最上のワインに替えられたのでした。

 

ヨハネはその出来事を「最初のしるし」と呼んでいます。

 

イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた(11節)

 

この「しるし」という言葉は原語では奇跡とも訳すことが出来る言葉です。

 

イエスがただそこにいること、そのことによってイエスの生涯で最初の奇跡がおこなわれたのでした。

 

こうしてこの『カナでの婚礼』のエピソードはハッピイー・エンデイングを迎えました

 

と、言いたいところですが、実は最後の

 

それで、弟子たちはイエスを信じた

 

と言うくだりが問題です。

 

何故なら、この何気ない一節が実はあの有名な『疑い深いトマス』への伏線になっているように読めるからです。

 

イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じた者は幸いである。」(ヨハネ20章29節)

 

参考:

 

雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社

    『主日の福音-C年』オリエンス宗教研究所

前島誠『ナザレ派のイエス』春秋社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

有名な話ですが、何故か福音書の中でいわゆる共観福音書にはなく、ヨハネだけが書き記しているのです。