見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
主の働きの実りは御前を進む(10節)
イザヤ書が大きく3つ(1~39章、40~55章、56~66章)に分けられることは度々ご紹介して来ました。
今日の朗読箇所はその2番目、著者については全く知られていないため通常「第二イザヤ」と呼ばれている部分の冒頭です。
冒頭に「帰還の約束」と見出しがつけられていることからも分かるように、この「第二イザヤ」はバビロン捕囚からの解放についての預言が主要テーマとなっています。
まず、1節では
慰めよ、わたしの民を慰めよ
と、「慰める」という言葉が繰り返されています。
英語聖書でも
Comfort, comfort my people, (RSV)
となっています。
「慰めよ」と神が指示をした相手は「第二イザヤ」と通常、呼ばれている預言者と理解するのが普通でしょう。
ところが、面白いことに原文では複数形となっているのです。
つまり、これは複数の相手に対して向けられた指示、命令ということになります。
一つの仮説として小欄は「第二イザヤ」と呼ばれている40章以下の著者が一人ではなく「イザヤ教団」とでも呼ばれるべき預言者と彼を囲む集団であり、それに対して向けられた言葉だった、という可能性を考えたりします。
この点について雨宮慧神父は
多くの学者は「天上での神の会議」をここに適用します。神を中心にして天使が集う天上界で、神が捕囚の終了を決定し、「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と宣言した時に天上界を満たした喜びを表現していると見る(『主日の聖書解説<C年>』)
としておられます。
「多くの学者」とされていますので、これは旧約聖書学では定説になっているということだと思いますが、この定説がどこまで遡れるのか、また
キリスト教の聖書学のみではなく、ユダヤ教ではこの箇所についてどう解釈しているのか興味があるところではあります。
閑話休題(それはさておき)
以上のような解釈を踏まえた上で雨宮神父は
3~5節は天使のひとりが仲間に呼びかけた言葉であり(『主日の聖書解説<C年>』)
と結論づけておられます。
確かに、光り輝く天上界での出来事として思い描くとこの言葉に更に重みが増してくるように思われます。
そのような天上界での幻を見たイザヤは
救いの神の到来を民に告げる(『主日の聖書解説<C年>』)
のでした。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社
『図説雑学 旧約聖書』ナツメ社
Robert B. Chisholm, Jr. "From Exegesis To Exposition - A Practical
Guide to Using Biblical Hebrew" 1988, Grand Rapids, MI